ウイスキー蒸留所の誕生。そのハイライトともいうべき場面は、やはりスピリッツの最初の一滴がポットスチルから流れ出る瞬間ではないだろうか。2023年、歴史を刻み始めた北軽井沢蒸留所の物語が、いよいよ始まろうとしていた――。
「ウイスキー」。その魅惑的な響きをもつスピリッツの語源は、スコットランドの古語、ゲール語の“uisge beathe(ウシュク・ベァハ)”に由来するという。訳して『生命の水』。
2023年7月1日、群馬県の浅間山北麓に誕生したばかりの小さなウイスキー蒸留所「北軽井沢蒸留所」では、まさに新しい“命の水”が産み落とされようとしていた。
前年の2022年末に竣工した建屋は、黒が基調のオフィスにも見えるシンプルな外観。しかし、一歩内部に入ると、高い天井いっぱいにポットスチルが聳え立ち、そこがウイスキーの蒸留所である証を示している。モルトの粉砕から糖化、発酵、蒸留、樽詰めの全工程を一つ屋根の下で賄うコンパクトな蒸留所内では、8月からの本製造に向けて、モルトを仕込み、ウォッシュと呼ばれる発酵液を得るまでの試験醸造が重ねられてきた。この日は、そのうちの1バッチ分を初めての試験蒸留にかける日。ソワソワととした期待感に満たされつつ、どこか緊張した空気も流れる。
「きたきた!」
弾んだ声を合図に、それぞれの持ち場で作業していたチームが新品ピカピカのスチルの足元に集まった。コンデンサー下のタンクに熱い視線が注がれる。声の主は、オーナーの坂本龍彦さんだ。じっと見つめるパイプの先端から半透明の滴が垂れ始め、次第に、ぽと、ぽと、ぽと…とリズミカルな律動に引き継がれていく。
「やったー、うれしいね!」
歓声が上がり、ハイタッチが交わされ、拍手が沸き起こった。
スコッチやジャパニーズスタイルのモルトウイスキーでは、アルコールを水から分離させる“蒸留”の工程を2回繰り返すのが基準である。今、流れ出ているのは、1回目の蒸留を終えた初留液。別名で“ローワイン”とも呼ばれるとおり、アルコール分が約20%と低く、雑味成分も多い。
この後、2回目の再留にかけてアルコール度数を60〜70%に高め、“ニューポット”“ニューメイクスピリッツ”と呼ばれる原酒が取り出されていく。つまり、目にしているのは、まだ製造工程半ばにすぎない液体なのだが、「そもそもローワインを口にする機会が普通はないですから。これはディステラーの特権です(笑)。うん、ちゃんとお酒の香りがしてるね。感無量です」とうなずく坂本さん。
一方、傍らでは蒸留所創設メンバーの1人であり、製造マネージャーも務める新納啓さんが腕を組む。「思った以上に麦汁寄りですね。これだけ泡が残っていることは、酵母の働きがアンバランスなのかも」と、シビアな感想を、ぽつり。
そう、この段階で得られる液体がどんなポテンシャルをもつ原酒になるのか、さらには熟成でエレガントに化けるのか、あるいは思わぬリッチネスをまとうのか、着地点は何も見えていない。穀物原料の品質に水、酵母、温度と時間の積算など、移ろいやすい不確定要素が掛け合わされるウイスキーづくりにおいて、「正解」「完全」の2文字はないのだから。調整や問題点の洗い出しもこれからが本番。挑戦は、ようやくゼロ地点に立ったにすぎないのだ。
しかし、ともかくスタートは切られた。既に「北軽井沢」のブランド名も決まり、初年度は最小限の6000L、近未来的には3~4倍の20000L以上の年間製造量を見込んでいるという。
北軽井沢蒸留所のプロジェクトが本格的に始動したのは2022年春。もっとも、坂本さんが蒸留所建設を思い立った時期はさらに7年前の2015年前後に遡る。その間、拠点を現在地に定めるまでは紆余曲折の展開があったというが、すったもんだの顛末記は別の章で改めて紹介したい。
最終的に選んだ吾妻郡長野原町北軽井沢の土地は、標高1100メートルの高原地帯に立地。スコットランドにも似た冷涼な気候風土に恵まれ、蒸留所裏には湧き水の清流が流れる。浅間山系の地下水を引く良質な軟水の仕込み水にも事欠かない。
「好条件が揃っていますが、最終的に決め手になったのは『ここがいい』という直感のようなもの。軽井沢方面から車で走ってくると、この辺りで空気が変わるのがわかる。朝の爽やかさもいいし、夕方から夜にかけて空が群青色に染まっていく時間の美しさも格別。『ここでウイスキーを造りたい』と肌感覚で思いました」と坂本さんは振り返る。
しかし、もうひとつの重要な要素は、東京から移動しやすい利便性にあった。北軽井沢蒸留所が型破りなスタートアップディステラリーとして注目を集める理由のひとつに、オーナーの坂本さん自身のバックグラウンドがある。本職は銀座でオーセンティックバーを営む現役バーテンダー。そして、蒸留所の稼働後も当面は東京と軽井沢を忙しく行き来しながら、2拠点での事業を継続していくことになる。車で3時間ほどでアクセスできる立地は、現実的に外せない条件でもあったに違いない。
「それにしても」と言いたくなる。二足の草鞋を履くのに、なぜ資金的、時間的、忍耐的なリスクの高いウイスキービジネスだったのか。ウイスキーを熱愛するバーマン(あるいは熱が高じてバーテンダーを目指す)は珍しくないが、蒸留所のオーナーになってしまった例は寡聞にして知らない。しかも、既存設備の活用や再興計画による事業でなく、ゼロから新設するという高いハードルを出発点にして。
蛮勇と言い換えてもよさそうな冒険譚は、どのように始まり、どんな経過をたどったのだろうか?そもそものきっかけから、じっくり話を聞いてみたいと思った。
文:堀越典子 撮影:キッチンミノル