昭和2年に日本初の「純印度式カリー」を発売し、カレー界に新風を吹き込んだ老舗「新宿中村屋」。誕生から1世紀近くを経ても色褪せない人気は、スパイシーでコクのあるカリーソースのみならず、その持ち味を最大限に引き立てるライスの存在に負うところも大きい。現在レストランでメインに使われているのは、看板のインドカリーに無双の米と定める“白目米”。本誌8月号カレーライス特集でもその概要を紹介したが、その背景にある100年近い歴史の中で生まれた復活ストーリーをお伝えします。
新宿中村屋の看板料理“インドカリー”は、しばしば「恋と革命」の形容詞付きで語られる。インド独立運動の志士、ラス・ビハリ・ボース氏が日本に亡命後、中村屋の創業者である相馬愛蔵・黒光(こっこう)夫妻と出会い、ともに逃亡生活を支えた長女の俊子氏と結婚。両者を結ぶ深い絆から、祖国インドのレシピを再現した純印度式カリーが誕生した。
しかし、味わいのインパクトにおいても、インドカリーは十分に革命的だった。当時の主流だった欧風カレーとは別物の、本場インド流のスパイス感。洋食屋のカレーの相場が10~12銭だった時代に80銭の超高値で売り出した思い切りのよさも型破りだ。その革命児ぶりが、実はライスの部でも発揮されていたことは意外と知られていない。
「昭和2年の発売当初は、インドから取り寄せたバスマティライスを使っていたようです。ご飯もパラパラした本場スタイルで、という信念があったのでしょう」と、衝撃の史実を明かすのは、御年87歳の総料理長、二宮健さん。戦後間もない昭和27年の入社。看板のインドカレーを誰よりも深く理解し、伝承し、進化の高みに引き上げてきた中村屋の“生き字引”だ。
中村屋で初めて使用されたバスマティ米だったが、「外米なんて」「臭い」「食べにくい」と不評を買って早々に退場。「インディカ米に近い食感で、かつ日本人の口に合う国産米」を条件に新たな米探しが始まり、白羽の矢が立ったのが、“白目米”という米だった。
白目米は、江戸時代には幕府へ上納する最高級米として珍重されながら、明治時代には栽培が衰退。ほぼ“幻の米”と化していたところを、フロンティア精神にあふれた相馬夫妻が昭和のはじめに復活に向けて奔走。埼玉県幸手市の12軒の農家に栽培を依頼し、当時の一等米より高い値段で買い取ったと伝えられる。今でいう契約栽培の走りといえよう。
本格的な作付は昭和5年に始まり、年間300俵、18tを産出するまでに。しかし、もともと多収性品種ではないことに加え、太平洋戦争の勃発で15年に栽培がストップ。以来、再び“幻の米”として日の目を見ない時代が長く続いていく。二宮さんが入社した昭和27年当時、白目米はもはや語り草となっていた。
「戦前を知る先輩の料理人から、『実においしいんだ』『あんなに(インドカリーに)合うご飯はない』と口々に聞かされていました。昔の資料では、“日本一寿司米”なんていうキャッチフレーズもつけられていて(笑)。そのぐらいパラリとして、さっぱりした旨味があるということ。自分の口で食べるようになっても、本当にその通りだと思います。小粒でベタつきがなく、ソースが下までスーッと浸透して、一粒一粒によくからむ。香りもいい。インドカリーにとって実に完璧なお米です」
先輩たちの思い出話は、常に「いつか必ず復活させてほしい」という一言で締められたという。その言葉を、二宮さんが忘れることはなかった。
復活劇のきっかけを引き寄せたのは、1本の新聞記事である。東京新聞の1991年9月10日付社説の中で、「かつて日本一の美味とされた武州・幸手の白目米」が紹介された。たった3行の引用文に目を留め、すぐに出典を新聞社に問い合わせた人物がいる。二宮さんその人だ。4年前の87年に「インドカリー60周年」を迎えたのを機に、「白目米の復活、再び」への決意を新たにしていたタイミングでもあったという。
「それからは休日ごとに幸手に通い、農家を1軒1軒訪ね歩きました。『白目米をご存知ですか?』と聞きながらね。とにかく情報が必要だったのです」。
3カ月間通っても手がかりが得られず、これが最後の1軒と思われる農家で奇跡の出会いが待っていた。玄関先に座っていた老女に尋ねると、「おじいちゃんが昔育てていて、中村屋さんに収めてましたよ」という答えが返ってきたのだ。
ツテをたどって白目米を自家用に細々と栽培していた別の農家を紹介され、籾を譲り受けて念願の試作までたどり着いた。
「7kgほどの収穫だったでしょうか。でも、ご飯に炊いてみた味がイメージと違っていて、本格的な栽培には至りませんでした。期待が膨らみすぎていたのかな、とも思いますが。機が熟していなかったということかもしれません」。
5年後の1996年、今度は70周年の節目を前に再チャレンジの機会が巡ってくる。前々年の94年、二宮さんは筑波にある国立研究開発法人(現・「農業生物資源研究所」)を訪ね、ラボに冷凍保存されていた白目米の種籾を譲り受けた。紹介を受けて福島県の農家に試作を依頼。安定収獲の見通しが立ったところで、翌年には金沢県白山市の農業法人「六星」と委託契約を結び、本格的な栽培がスタートした。
半世紀にわたる白目米の復活ストーリーにはひとまず句読点が打たれたが、ライスの理想形により近づくためのマイナーチェンジは続いている。昨年から白目米の精米は墨田区の米穀専門店「隅田屋商店」に依頼し、従来の白米から古式精米法による八分搗きに切り替えた。大型循環式精米機を使い、米同士の摩擦によって旨味層を含む外皮をゆっくりと薄く削ることで、米本来の香りと旨味をしっかり残す精米法だ。
「昭和初期の白目米と同じ品質に近づけたいという希望がかないました」と頬をほころばせる二宮さん。そもそも隅田屋商店との出会いはといえば、二宮さん自身が目にした生活情報番組で古式精米製法について知り、すぐさまコンタクトをとったのが始まりだったそう。料理人キャリア70余年の総料理長の、創業者と同様のチャレンジ精神とみずみずしい探求心、フットワークの軽快さが伝わるエピソードだ。
「何より、香りと味の旨味が劇的に増して、お客様に『ご飯がおいしくなった』とほめていただけるのがうれしいですね。次は江戸時代由来の炊飯法で、インディカ米やタイ米で主流の“湯取り法”も試してみたい。主食ではなく米飯料理に向かう意識をもって、カレーとご飯の関係性を深めていきたいと考えています」。
“恋と革命”から生まれたインドカリーの物語は、1世紀を経ても、まだ冒険活劇の途上にあるらしい。
文:堀越典子 撮影:海老原俊之