dancyu5月号「美味しくって、楽しくって、ちょうどいい旅」特集に掲載した「熱海でニュースタイルな干物呑み」。仕事で熱海へ通ううちに、懐深い町の魅力にハマってしまった料理研究家の山田英季(ひですえ)さんと、新感覚の干物呑みを堪能しまくる日帰り旅企画を展開しています。しかし、誌面では紹介しきれなかった、熱海の楽しみ方がまだまだある! と熱く語る山田さんが、さらにディープな町歩きを前・後編にわたって紹介していきます。まずは前編、朝と昼の熱海から。
きっかけは、熱海で150年以上の歴史を持つ「釜鶴ひもの店」という干物屋さんが2023年1月にオープンした「Himono Dining かまなり」のフードディレクションの仕事だった。
dancyu5月号の誌面でも紹介されているので詳細は割愛するが、干物の可能性を開くために作られた、まったく新しい干物レストランだと思ってもらえば間違いない。ぜひ店に行って、洋風ありエスニックありな、無国籍な干物料理を体験してもらいたい。
前置きはこれぐらいにして、熱海で過ごした39日間。その中で特に気に入った場所を紹介していきたいと思う。
熱海での定宿は、駅前にある「プリンススマートイン」だ。
朝はそこから、平和通り商店街という干物やまんじゅうなどを売る土産物屋が立ち並んだアーケードを抜け、海に向かって坂を下るのが、お決まりの散歩のコースだった。
時には、パン屋で朝ごはんを買って食べながら、別の日には、かまぼこ屋で串に刺さったかまぼこを頬張りながら歩くのが、なんとも楽しかった。
商店街を抜けると、まだ営業前の居酒屋や鮨屋、カフェ、素敵な雑貨屋を見つけ、帰りに寄ってみようかなと思いを巡らせてみたり。そうして日々の散歩で見つけた数軒には、何度も通うようになった。
ある日。一息の休憩とランチを兼ねて、同僚とビーチにほど近い熱海銀座通りを歩いていると路地の先に“COFFEE”の文字。そして、帽子を被る女性のイラストに、「ボンネット」というロゴが飾られた看板が目に入った。
焦茶色をしたドアの窓から覗くと、昭和の風格を感じる電球色の店内。これは門を叩くべきだぞ。そう思って、ドアノブに手をかけ、中に入った。
「すいません。二人入れますか?」
声に気づいた白髪のマスターが店内を見まわし、入口のそばにある席に通してくれた。
メニューに目をやるとスパゲティー、ハンバーガー、サンドイッチ、トーストというカテゴリーが並んでいた。
「喫茶店のハンバーガーか。そういえば食べたことないな」
ハンバーガーとコーヒーのセットを注文し、料理が出てくるまでの間、店内を見回すと壁には、店で提供する料理メニューのイラストが飾られている。
その素敵な絵柄に、自分の注文を後押しされたように期待値が上がったころ、マスターはコーヒーのサイフォンとカップを持ってきてくれた。
「これは米軍が置いていったものなんだよ」と言いながら、カップにコーヒーを注いでくれると、湯気とともに柔らかい焙煎香がした。カップを手に取り、ひとくちすする。苦味のある味わいが、店内の様相と絶妙にマッチしているように思えた。
続けて、奥の厨房からマダムと思われる女性が、出来上がったハンバーガーをカウンターに乗せるのところを横目で確認した。それを、マスターがゆっくりと席まで運ぶ。目の前に置かれたハンバーガーは、ふっくらとしたバンズの間に挟まれたパティにかけられたソースがこぼれそうになっている。
マスターの教えの通り、添えてある玉ねぎとレタスを挟み、かぶりつく。柔らかいバンズの先に感じる少し甘めのソースが、給食で食べたミートソースを思い出させた。ファストフードのものとも、グルメバーガー店のものとも違う、なんとも家庭的で優しい味わいだ。
ハンバーガーを食べ終わり、ポテトをつまみながら、満足感に包まれる。熱海には仕事で来ているにも関わらず、ここにいるおかげでリラックスしていることに気がついた。
後日、地元の友人に聞いたところ、白髪のマスターは御年90歳の大ベテランだそう。マスターとマダムは毎日毎日同じように店を開け、おいしいコーヒーとハンバーガーでもてなしてきた。積み重ねてきた長い月日は、店のあちこちに歴史として刻まれていた。
熱海に通いはじめた頃、魚の扱うなら市場に行かねばと仕事仲間に連れられて、「熱海魚市場」に行った。
早朝7時半ごろから、場内で競りが始まる。いい魚を我先にという殺伐とした雰囲気はなく、アットホームで、魚種や量はこそ少ないが、並ぶ魚の鮮度は東京の市場よりもよく感じた。
「干物だけじゃなく、旨い鮮魚も食べてみたいな」
そんな思いを巡らせながら数日。いくつかの居酒屋で綺麗に盛り付けられた刺身を食べたりはしたものの、なぜか、市場で見たあの鮮度を味わえる機会は巡ってこなかった。
ある日、いつもの散歩コースから外れて、早咲きのあたみ桜を見るために糸川沿い遊歩道を歩いたところ、小さな店の前に人だかりができているを見つけた。
近寄ってみると、それは町場の小さな魚屋だった。
熱海魚市場から仕入れた鮮魚が、発泡スチロールの箱に入って並べられている。近くに住んでいるならまだしも、ホテル暮らしの僕には用のない店だよな……と、その場を通り過ぎようとしたその時、店先の冷蔵ケースの中に、トレーに盛り付けられた刺身や、パックに入った握り鮨が売られているのを見つけた。
買えるのか、買わねばならぬ、絶対に。
店主らしきおじさんの横に張り付き、鯵の鮨と刺身を指差して、「これと、これください」と、他のお客さんに取られてなるものかと我先に注文した。
やった! 今からあれを食べられるのか。楽しみだぞ。どこで食べよう。ホテルまでは、歩いて15分ほどはある。酒を買って帰るならさらに5分はかかるので、20分。我慢できるのか──。そんなことを考えながら、川の方に目をやるとベンチがあった。あそこに座って、膝の上にのせた鮨をつまむなんて最高だろうな……。
物欲しそうな顔していたのか、おじさんが「食べてくか?」と声をかけてくれた。このタイミングで断れる大人はいないだろう。僕は「ぜひ!」と返した。「ちょっと待ってな」とおじさんは、酒のケースとベニア板を持って、ベンチの方に歩いていく。
おい。まさか。まさかだよな。これ。
おじさんは慣れた手つきで簡易テーブルを組み立てると、「ここで食べな、持ってきてやるから」。そう言って、鮨と刺身をのせた盆に、醤油に小皿、割り箸までセットされた状態で運ばれてきたのだ。なんだこれ。控えめに言って最高だぞ!
ベンチに腰掛け、おじさんに会釈をして、いよいよ鮨と向き合う。
皮を剥がしても銀色の脂が乗った鯵、切り口の立ち方からもとびきりの鮮度が伺える。箸を割って鮨をつまみ、ちょっとだけ醤油をつけて口の中へ。あの日、市場で見た鮮度が、弾力とともに歯に伝わってくる。そして噛むほどに、上品な脂の甘みを感じる。
正直に言えば、ここにカップ酒が欲しい……。しかし、ここは大人のマナーを守られば。公共の場で、酒を飲み散らしてはならぬ。だけど、そんな心の誓いを立てた直後には、次回は店のおじさんに「ここで、お酒も飲んでいいですか?」と聞いてみようと、ふしだらなことを考えていたのだ。
文・写真:山田英季