純米酒を熟成させる。今でこそ、その魅力に気づいた造り手も飲み手も増えてきているが、30年前、まだその試みは特異なものだった。埼玉の神亀酒造と鳥取の山根酒造場。エリアも年代も異なる二人の蔵元は、共に純米酒の熟成に可能性を見出していく。
山根酒造場と神亀酒造の交流は、山根さんの父である故・山根常愛(つねよし)さんの代からの親子二代にわたる。常愛さんは「米によって異なる素材の特性を酒の味に残していく」ことを酒造りのひとつの指針とし、鳥取の酒米の雄である強力(ごうりき)米の復活に尽力した蔵元としても記憶される人だ。1990年に結成された蔵元交流会の会員蔵元であった常愛さんと小川原さんは、交流会で顔を合わせる時だけでなく、純米酒復権の同志として電話でも酒造りについて長々と話し込む間柄だった。「山根さんのお父さんほど、俺に電話をかけてきてくれた人はいないな」と生前の小川原さんが懐かしそうに語っていたのを筆者は耳にしているが、正紀さんにも同様の記憶があるという。
「うちの父親はけっこうプライドの高い人間で、なのに年下の小川原センムに丁寧な敬語で喋っているのが、横から見ていると可笑しかったですね。センムのことは、かなりリスペクトしていて、「小川原と会うと必ず新しい発見がある」と。父親にしても聞きたいことは、たぶん、ひとつかふたつなんだけど、センムから返ってくることはたくさんあったようで、何を聞いても応用がきく。『(酒のことを)よう知っとる、よう知っとるわ』と話していました。私と一緒に飲んでいてもセンムの話になると顔がほころんで、楽しそうだったんですよね。本当に好きだったんだなと思います」。
小川原さんの助け舟もあって先代を説得した山根さんは純米酒のタンク熟成に着手。それがきっかけとなって、熟成酒にも注力してきた山根酒造場では、現在では20年以上もの歳月をかけた長期熟成酒『時の極(きわみ)』シリーズを商品化している。
「実際にやってみて、よかったと思いますね。下にびっしりと澱(おり)が溜まったタンクから、何時間もかけてゆっくり上澄みを取り出すところまでいった時は興奮しました。そういうきっかけをくれたのもセンムですが、その後も何かとヒントを小出しにしてくださって」。
もうひとつの熟成酒銘柄『時の匠』は、6年から9年程寝かせた熟成酒をブレンドしたものだ。
「最初は5年という括りで商品化したのですが、5年だと安定的に出すのが難しいのでブレンドしたほうがいいと。そんなアイデアもセンムからだったのですが、『ブレンドするなら、きちんと何度も利き酒をしながらやらないとだめだぞ。何年と何年だから、これでツジツマがあうとか、そんな適当なものではないからな』ときっちり忠告がありましたね。センムは、まあ、自分がやったことの経験値というのが半端ない人だったですからね」。
経験値、ということでは、酒米との関わりでも小川原さんは、徹底して農業の現場を見続けていた。
「蔵元の仕事は、自分の度量いっぱいの良い米を杜氏と蔵人に用意すること」。これは、小川原さんの持論だった。この姿勢に山根さんは経営者としての共感を寄せる。
「センムがおっしゃるように、蔵元に何ができるかといったら、酒造りに関していえば、いい米を調達してきて準備すること。ちゃんとした賃金を蔵人に払うこと。蔵人の環境を働きやすいものにすること。これだけだって、大変といえば大変です。さらに神亀酒造では、よその蔵人を預かって育てたりしていたでしょう。そういう蔵になったらすげえなとは思っていましたけれど、まず、そうなるためには、利益率を完璧に確保できる、かなりの健全経営をした上で“必要な無駄なこと”をする前提で経営していかなければならない。必要な無駄、というのは、人づくりという観点での無駄です。千石前後の醸造量であんなに蔵人さんの数が多い蔵はない。いったいどうなっているんだろうと思っていました」。
醸造量に比べての労働人員の多さは、業界全体の今後も考えての雇用だった。「まともな純米酒を醸せる杜氏・蔵人を育てて全国各地に送り出したい」ということが小川原さんのひとつの夢だったのだ。利益はすべて蔵の設備と人件費に。
「『全部蔵に使って、家にまわす分がなくてごめんな』と私に謝ってくれてましたよ」。これは、笑いを含んだ声で語られた美和子夫人の回想だ。
2017年2月。小川原さんを度々見舞っていた『酒のはしもと』(千葉県船橋市)の店主・正木成幸さんと一緒に、山根さんは有明がんセンターに向かった。「山根さんが鳥取からわざわざ来てくれる」と小川原さんは、その訪問を待ちかねていた。酒造りについて、蔵元として、山根さんに話しておきたいことは山積しているようだった。
「病院では『昔は米の白さ(※高精白であること)が酒のひとつのステイタスだったこともあったけれど、今はそういうことではなくて、単に米を白くするだけじゃだめなんだ、いい純米酒を造るために何をしていかなきゃいけないか、みんながそれを掴んで学んでいかないと』ということを話してくれましたね。たとえば、純米酒造りの時は、麹室に引き込む時の種つけの温度も白い米と同じやり方、同じ温度ではだめなんだと。みんなと会って、そういう話をもっとしなければならなかった、とも言っておられましたが、でもご本人は、どうやらそれは叶いそうにないというのは悟ってらしたようなんですよ」。
2ヶ月後、病院を出て自宅療養へと切り替えた小川原さんを再び見舞おうと山根さんは蓮田の自宅を訪問する。だが、訪問時、大勢の見舞客に囲まれながらもすでに小川原さんの意識はなく、会話は叶わなかった。
鳥取へと戻った山根さんの元へ翌日訃報が届く。追悼の意と長年の感謝とを表すために送ったのが「センムの生き様に憧れ、いろいろな真似をしてまいりました」と綴った弔文(連載第8回参照)だ。
「センムは蔵元としてやっていく上での目標だった人ですね。蔵元ってこういう人のことか、と思っていましたね」。
現在、山根さんが率いる山根酒造場のHP冒頭にはこう記されている。
「優れた米だからといってよい酒ができるとは限りませんが、優れた米でなければよい酒はできません。酒は米のポテンシャルを超えられない。日置桜の酒造りは常に農業の延長線上にあります」。
この表明の通りに、農業への畏敬の念を持って最良と思われる米を求める。その米で醸された日置桜は、ストイックな印象も持ちながら、限りなく優しい燗酒にも変化する幅の広さと奥行きを持つ、味わい深い酒だ。盃の中の酒には、農と醸と、重ねられてきた対話も含まれている。日本酒は、米の酒であると同時に人の縁の酒でもあると思う所以だ。
文:藤田千恵子 撮影:伊藤菜々子