「日本酒を変えた」男 ~神亀・小川原良征“センム”の軌跡~
センムに伴走、多くの時間を共にした「諏訪泉」東田雅彦さん②

センムに伴走、多くの時間を共にした「諏訪泉」東田雅彦さん②

四半世紀前の出会い以来、小川原センムとの深い交流が続き、さまざまなことを教わったという諏訪酒造代表の東田(とうだ)雅彦さん。センム主催の「全量純米を目指す会」には立ち上げ前から関わり、事務局の秘書役を務めていた。諏訪酒造は1980年代は名高い吟醸蔵だったが、センムとの交流により、20年ほど前から純米酒へとシフトしていく。

センムさんは本当によく勉強し、農家さんを大切にしていました

華麗なる吟醸蔵から全量純米を目指す蔵へ。路線を変更した諏訪酒造からは、吟醸酒を贔屓にしていた酒販店は離れていった。「そのかわり、純米酒を仕入れてくれるお店も出てきて、酒販店の総取り換えというか、きれいに二つに分かれた感じでした」。
去る人、来る人。すぐさま順風になるわけではない純米酒造りに飛び込んだ東田さんの選択には、小川原さんも責任感を抱いていたふしがある。
「センムは口だけ出す、という人ではなかったですからね。鳥取にもしょっちゅう来てくれていましたし、いろいろな相談にも乗ってもらいました」。

良い酒米を購入するための資金。純米酒を熟成させるための資金。そのどちらの調達にも苦慮していた東田さんに手を差し伸べたのも、やはり小川原さんだった。
「ご自分も苦労してきたからだと思うけど、センムは相手に合わせて話すのが上手だったと思うんですよね。僕たちの話を聴くときも『自分も大変だった段階があるから、人が話しているのを聴くと、今、どのあたりの苦労の段階なのかがわかる』と言っていましたね。そう言ってもらえると、こちらも何か頑張る気になるじゃないですか。『ここなら、このあとはきっと間違いないよ』って言ってくれているわけだから」。

日本酒瓶
諏訪酒造の酒はすべて純米酒。左から、近隣の田中農場の山田錦を原材料とした「田中農場」、きのこブーケラベルが好評の純米吟醸「杉の雫」、徳島の阿波山田錦を使用した「諏訪泉」、純米吟醸「満天星」。
蔵
白と黒の対比が美しい諏訪酒造のなまこ壁。諏訪酒造の創業は1859(安政6)年。蔵は、かつては宿場町として栄えた智頭町の趣のある街並みの中に位置している。

2006(平成18)年5月。純米酒啓蒙のリーダー的存在であり、小川原さんの良き理解者でもあった上原先生が逝去。東田さんにとっても上原先生は、発酵の経過簿を見てもらうほどに具体的な指導を受けた存在だった。「上原先生は面倒見がいい先生でした。でも業界が変わる前に亡くなってしまわれた。ご葬儀のとき、センムは『これからは一人でやっていかなければならないんだな』と言っていましたね」。

翌2007年5月、小川原さんは同志の蔵を集めて「全量純米蔵を目指す会」を結成する。同年秋、飲み手が先に酒代を投資することで蔵の支援者となる『純米酒ファンド』を小川原さんが考案、実践したのは、酒米の購入や酒の熟成期間中の資金調達に悩む会員蔵の支援を考えてのことだった。
「ファンドの第1回目の募集が神亀酒造だったでしょう。あの時、センムさんの蔵は別に米代に困ってはいなかったんですよね。だけど、自分が表に出て先頭切って募集すれば、あとに続く蔵にも支援者がつくと。そう考えての募集だったんですよね」。東田さんがそう回想するとおり、『全量純米蔵を目指す会』に加入した蔵の中には、ファンド導入によって経営難を乗り越えたり、熟成酒に取り組むきっかけをつくれた蔵もあった。

写真
『全量純米酒を目指す会』では純米燗酒の啓蒙のためにイベントも多数開催。小川原センムの傍らには、つねに燗付け器と酒瓶、そして東田さんの姿が。
書類
勉強会は数多く開催したものの、書き残すことが苦手だった小川原センム。東田さんは、記録係としての役割もこなしていた。

前後して、小川原さんは酒米の共同購入にも着手している。東田さんが驚いたのは、酒米農家とのつきあい方だ。
「センムは、農家さんをすごく大事にしていました。だから、良い米を高く買おうとする。普通は、蔵元たちは米代を値切ろうとする。でも、そんな姿勢だと農家のやる気をそいで、米の品質は低下してしまうんです。センムが農家の人たちを前に話していたのは『皆さん、私たちをお客さんと思わないでください。農家さんがいいお米をつくってくれているから、いい酒ができる。皆さんはパートナーなんです』って」。
酒米農家は、良い純米酒を一緒につくっていく仲間。だからこそ、自分たちで生産地も生産者も守り、良い関係を築いていこうとする小川原さんの姿勢は、互いの深い信頼関係を築いていく。東田さんもその関係性には大きな影響を受けた。
「私もならって、鳥取県酒造組合の全農との価格交渉の席で『値段はいいから品質を上げることを考えてくれ』と言ったら、全農の人が『今までは買い叩かれるばかりで値段の話だけ。田んぼの土壌の窒素分(*)や酒米の品質の話が出たのは初めてです』って。センムさんは本当によく勉強していましたから、いつも教えられるばっかりでしたね。徳島の阿波山田の田んぼには、春、夏、秋オールシーズン行って、途中でまだ気になることがあればまた行って。鳥取の田んぼにもよく来ていましたしね」。

*田んぼの土壌の窒素分は稲の成長には欠かせないものだが、その量が過剰だと稲が軟弱になり、病気が起こりやすくなる、倒伏しやすくなるなどの弊害が起きる。また窒素の量が多いと収穫した玄米のタンパク質が増え、酒造りの際に雑味のもととなることもあるため、肥料の量や使用時期には微妙なバランス調節が必要となる。

千代川
「町の八割は森林」という美しい智頭の町中を流れる清流・千代(せんだい)川。鳥取=因幡(いなば)の国は、多くの谷が集まってきたということから「千谷」(せんだい)と呼ばれ、のちに『千代』の字が当てられた。
直売所
蔵に隣接する「酒蔵交流館 梶屋」は、諏訪酒造の直売所としてだけでなく、地元の手仕事による食、衣、道具類など選り抜きの土産品が販売されている。

小川原さんは、東田さんの蔵を訪問する際には、近隣にある「田中農場」の田んぼにも立ち寄った。ここは、小川原さんが「小鳥のさえずり」と名付けた純米吟醸に使う山田錦を栽培している場所だ。
約27年前、初めて田中農場産の山田錦を使えることになったとき、小川原さんは「(かつて憧れた諏訪酒造の大吟醸)鵬(おおとり)と同じ鳥取県の米を使えるなんて」と大喜びし、「鵬」に対して自分はまだ小鳥だから、と酒の銘柄を「小鳥のさえずり」とつけたのだという。そのラベルには、酒米生産者への感謝を込めて、田中農場の田中正保さんの名前も記されている。小川原さんは、およそ自蔵の酒の味については謙遜というものをしない人だった。それは、自分ではなく、蔵の人たちが造ってくれた酒だという思いがあるからだったが、憧れの「鵬」に対しては、なんと謙虚な、可愛らしいオマージュを捧げたのだろう。

憧れから繋がった諏訪酒造との深い縁。その蔵で醸された熟成純米酒は、今期から小川原さんも目指していたフランスへと輸出されることになった。
「フランスの取引先の人たちは、実際にうちに来て酒を味わって選んでくれたんです。僕はドライフルーツやオイルサーディンをお出しして、熟成させた純米酒と一緒に味わってもらった。そういうもてなし方も、センムから教わったことでしたね」。

写真
純米酒啓蒙のために各地を駆け回った小川原センムと東田さんのスナップ。旅先の喫茶店で、疲労困憊のあまりに居眠りをしているセンムの姿も残されている。

文:藤田千恵子 撮影:伊藤菜々子

藤田 千恵子

藤田 千恵子 (ライター)

ふじた・ちえこ 群馬県生まれ。日本酒、発酵食品・調味料、着物の世界を取材執筆するライター。dancyu日本酒特集にも寄稿多数。1980年代中盤に日本酒の業界紙でアルバイトしていたことがきっかけで神亀酒造・小川原良征氏と出会い、以後三十余年の親交を続ける。小川原氏の最晩年には、氏からの依頼で病床に通い、純米酒造りへの思い、提言を聞き取り記録した。