埼玉県蓮田市の神亀酒造は、戦後初の「全量純米蔵」となり業界に革命を起こした蔵だ。蔵を率いた故・小川原良征(おがわはら・よしまさ)さんは、自由闊達に日本酒のさまざまな可能性を追いかけた醸造家。無濾過生原酒、発泡にごり酒、純米酒の燗酒、熟成酒、低精白酒……など現在多くのファンから愛される酒はいずれも、昭和の時代に氏が見出し世に提案してきたジャンルである。この連載では、小川原さんの仕事の軌跡や業界への影響を、氏との縁を得た人たちの言葉から辿っていきたい。
埼玉県蓮田市の酒蔵・神亀酒造は、醸造する酒のすべてが純米酒という「全量純米蔵」だ。「センム」の呼び名で同業者からも飲み手からも慕われた先代の故・小川原良征さん(1946~2017)が「酒は純米」という信条から、戦後初の全量純米蔵へと転換をはかったのは1987(昭和62)年のこと。その決断を“戦後初の快挙”、と呼ぶ人もあれば、“常識を覆す”ことに驚く人もいた。なんであれ、その事実は新聞記事にもなるほどで、その後の日本酒業界にも飲み手にも大きな意識の変化をもたらした。
今でこそ、純米酒はごく普通に買えて、誰もが手軽に飲める酒だ。純米酒のみを醸造する全量純米蔵という在り方を選択する蔵元もその数を増やしている。だが、今から35年前、全量純米蔵は神亀酒造以外には一軒もなかった。戦後の日本酒業界で、一人の道を最初に歩き出した小川原さん。それは、いったい、どんな思いから始まった道だったのだろう?
日本酒はもともと、米の酒だ。しかし、そこにわざわざ「純米酒」という呼称がつくまでの経緯を語るには、歴史を遡る必要がある。
有史以来、米・米麹・水のみを用いて醸す醸造酒であった日本酒に、蒸留したアルコールを添加する。それは戦時中、厳寒期の満州で日本酒を凍結させないために、軍部の要請から開発された方法だった。しかし、日本国内では戦中戦後の米不足を補う手段としても用いられた。米不足が解消した高度成長期においてもアルコール添加は続き、いつしか日本酒業界の“常識”として定着していったのだった。
小川原さんは、終戦後間もない1946年生まれである。神亀酒造は1848年創業の老舗蔵で、蔵の5代目主であった祖父が中国大陸で戦死、戦中戦後の蔵は祖母のくらさんが女手ひとつで守ってきた。その祖母に可愛がられて育った小川原さんは、自分の使命は酒蔵を継ぐことだと自覚し、東京農業大学醸造科に進学。そこで生涯の師となる塚原寅次教授と出会う。塚原教授は、「このままでは誰も日本酒を飲まなくなってしまうのでは」という大きな危機感を持っていた。当時、昭和30年代の日本酒の多くは、蒸留したアルコールを添加して増量し、糖類や酸味料で味を調整したものだったからである。
塚原教授の危機感は、蔵を継ごうとしている小川原さんにとっては我が事であり、「多くの命も文化も奪った戦争が日本酒の質までも変えた。ならば、自分の手で日本酒の戦後を終わらせる」という決意にも繋がっていく。
まず学内で純米酒の試験醸造を体験した小川原さんは、米と米麹だけで醸した酒の味わいに手ごたえを感じる。さらには実家の父にも願い出て卒業後の1968年には蔵内で初めての純米酒を醸造した。「前例がないから純米酒仕込みは認められない」と言う税務署に対しては、「東京農業大学で醸造学を学んだ集大成として試し造りをしたい」と在学中から頼み込んだ。許可が出たのはタンク一本分だけ。「ワインと肩を並べられる日本酒を」と意気込んだ小川原さんは、精米歩合60%、日本酒度+7という辛口の純米吟醸酒を醸造する。しかし当時の市場では、日本酒度の平均は-9~-10と甘口が主流。秋を迎えて周囲の酒販店に試飲をしてもらっても「うすい」「辛すぎる」という評価しか得られなかった。
4年後の1972年には、「時期尚早」と反対する周囲を押し切って、三増酒(※)も撤廃した。
「純米酒造りを続けて、飲む人にわかってもらえないと、いつかワインに日本酒が潰されてしまうだろう。(中略)やるだけの事をやって駄目ならあきらめもつくけれど、何もしないでジリジリと大手蔵に浸食されて、いつのまにか廃業なんて、あきらめきれない。酒造りを続けてきた先祖様に申し訳ないから、米だけの酒を造り続ける」。後年の手記に小川原さんは、この頃のことをそう綴っている。
※三倍増醸酒の略。アルコール添加によって約三倍に増量され、糖類、酸味料などを加えた酒。
しかし、タンクに溜まっていく純米酒は、ただの売れない酒ではなかった。年を重ねるごとに円熟味を増していくのである。そんな熟成の魅力に気づいた小川原さんだったが、衝突する相手は蔵の外にもいた。税務署である。日本酒は、製造場から出荷することで酒税が発生する。神亀酒造の蔵内で熟成させたままの酒を税務署は「不良在庫」と呼び、「不良在庫を処分するまでは、新年度の酒造りに必要な書類も通さない」と恫喝(どうかつ)した。そんな理不尽な態度に毎年悩まされていた小川原さんは、税務署からの帰り途、憤懣(ふんまん)やるかたない強い怒りとストレスから目の網膜に穴があくという症状まで体験している。
衝突の多い日々の中で光が差し込むような出来事もあった。1981年、中野の酒販店「味ノマチダヤ」の店主・木村寿成さん、池袋の酒販店「甲州屋」の店主・児玉光久さんとの出会いを得る。
木村さんは各地の良質な日本酒を発掘しつつ「酒仙の会」という日本酒啓蒙のための会を主宰していた。そこに招かれた小川原さんは、熱心な日本酒ファンたちが真剣に利き酒をする様子に驚かされた。世の中には、このように日本酒に興味を持ち、愛飲してくれる人たちがいる。それは小川原さんの大きな励みになり、「汗を流し、正しく稼いだ金で飲む人の舌に嘘をついてはいけない」というあらためての決意となった。
もう一人、甲州屋の児玉光久さんもまた、当時は稀少だった良質の純米酒や吟醸酒を自分の足で駆け回って仕入れていた。児玉さんは、初めて神亀の純米酒を口にした時、「今まで、全国各地いろいろなところを廻ってきたけれど、こんなに近くに、こんな酒を造ってくれている蔵があったんだな」と喜んだ。肝胆相照らすという出会いを得て、児玉さんは蓮田の蔵に足しげく通い、時には泊まりがけで麹室の仕事を手伝っていくことなどもあったという。「良い酒は、良い人を結びます」という児玉さんの言葉に小川原さんは、心底共感した。児玉さんからの紹介で池袋の居酒屋「味里」の杉田衛保さんや品川区の「酒縁かわしま」の店主夫妻が、店に集う日本酒ファンたち総勢20人と蔵見学に訪れたのもこの頃だ。
人一倍の照れ屋で恥ずかしがり屋だった小川原さんだったが、はるばる蓮田の蔵まで足を運んでくれた日本酒ファンたちに対しては、蔵の中を案内するだけでなく、その後の利き酒が深酒になるまで、とことんもてなし続けた。最初はそっけないようでいて、一度心を開いたら熱い情けや人なつこさが溢れだして止まらなくなるようなところが、小川原さんにはあった。その温かさ、優しさが後年、多くの人からセンムセンムと慕われた理由でもあっただろう。
文:藤田千恵子 撮影:伊藤菜々子