神奈川県・大倉山にはスペイン語の店名を冠した、フレンチレストランがある。その時点ですでに面白いが、店主は生粋のフライパンマニアとの噂。そこで出会った驚愕のフライパンコレクションとは。
マニアなのである。で、実は、あるアニメのキャラを思い出してしまうのである、このシェフの姿を見ていると……
東横線の大倉山駅は、改札を出ると感じのいい商店街がある。レモンロードという、ちょっと照れるくらいかわいい名前のその通りをちょっと歩く。一本路地を入って、さらにボトルネックになっている細い路地に入ると、その店はある。アサドール・ケリコという。アサドールは炭焼きとか薪で焼くことを、ケリコは「おいしい!」を意味するスペイン語だ。お店の名前はスペイン語だけれど、料理はフレンチをベースにしている。はにゃ?と思うむきもいるでしょうが、しばしお待ちを。
そこはかとなくジブリ映画に出てくる家に似合いそうな木製のドアをあけると、奥に長い店内。その中央に、壁で仕切られた厨房があるのだけれど、三方に窓がある。
これがミソ。前々からこっそり覗いていたのだけれど、あるわあるわ。
フライパンである。ぱっと見ただけで、銅、アルミ、鉄があって、形もさまざま。鉄も鋳鉄のものも鍛き出したものもある。火がどーっと燃えるコンロもあるけれど、気になるのが、もう一つある。いわゆるフラットトップグリル、まっ平な鉄板があるだけのストーブ(コンロ)だ。そこに、いろんなフライパンが並べ、シェフは次から次へと旨いものを作ってしまうのである。シェフは榎本裕一さん。恰幅のいい、一目見ておいしいものを作ってくれる雰囲気が漂っていて、実際旨いものをじゃんじゃん作ってしまう。
店を訪れると、さっそく榎本さんが2本のフライパンを手にとって言った。
「フライパン、いろいろあるんですけど、そしたら今日は、このオーバル(楕円)の銅のと、こっちのステンレスを使いましょう」
で、件のフライパンを見せてもらう。これが、まあ、かっこいいのである。
――このオーバルのフライパン、ずいぶん古いものみたいですが……
「それはパリで買ってきたやつなんですけど、もう20年くらい使ってるんですけど、買ったときにはもう40年くらい経ってたものみたいですねえ。で、銅の、特に古い時代のフライパンのいいところは……」
ひとしきりフライパン談義。そして、もう一本のステンレスのフライパンについても
――これ、この、柄の繋ぎ目のところかっこいいですね
「これ、すごいんですよ。スポット溶接がほんとうにきっちりできてて、リベット留めなんかよりはるかに衛生的になるし。で、この三層の底の作りなんですけど、これは実は宇宙開発のなかで出てきた……」
私も好きなものだから、ここから暫く溶接の話で盛り上がる。なんというか、榎本さん、マニアというか、もはや研究者・サイエンティストなのである。面白い話が止まらない。あんまり面白いからこちらも腹が減ってても思わず聞き入ってしまう。そしてお腹もグウグウ相槌を打っている。
――フラパインは厨房の魔法の杖。ある意味最もシンプルな調理道具ながら、信じられないくらいいろんな料理を作ることができる――それを追いかけていくのが本連載「フライパンジャーニー」だけれど、まずは魔法の結果、もとい調理と料理を見ないといけない。一旦、溶接とビンテージフライパンの話をとめて、厨房に入る。
で、オーバルのフライパンで帆立を、そしてステンレスのフライパンではチキンを焼いたものをそれぞれつくってもらうことになった。
使うのは、件のフラットトップのストーブ。これが見るからに分厚い鍛えた鉄板を設えてある。
実は、こういう平らなストーブは、今のような五徳を介して直火にかけるコンロが普及する前から存在する、コンロの基本形らしい。その昔、浅くて平たいフライパンの原型はメソポタミア文明のなかで生まれたそうだが、その頃のフライパンには、薪なんかの上に安定して設置するために足がついていた。だから英語では古い時代のフライパンをスパイダーと呼んでいたんだそうだ。その後、薪の火の上に鉄板を置く「コンロ」が誕生し、フライパンから足がなくなりまっ平な底になった。
「スペインに住んでいるときに、おいしいと聞けば山奥でもどんどん行っては食べにいって、厨房を覗かせてもらって。おばあさんが一人でやってるお店なんかで、普段通りの、それこそ普通の家庭で食べるような盛り付けだったりするんだけれど、これが物凄く旨くて。そういうものにふれているうちに、だんだん、フランス料理の源流がスペインにはあるんだなあ、としみじみわかってきたんですよね。それでフレンチなんだけれど、スペインや、もっとさかのぼって地中海沿岸とか、そんないろんな源流を感じさせるような料理を作っていきたいって思って」
そういう意味でも、このフラットトップで料理をするのは、もっともなのであった……なんて感心して話に聞き入っている間に、榎本さんどんどん料理を進めている。嗚呼、お待ちくだされ……。
20代からずっと一緒の妻、美穂さんと二人で切もりする店だから、料理は二刀流は当たり前。二つのフライパンの中身は同時進行でどんどん旨そうにしあがっていく。
オーバルの銅製フライパンのホタテは、ホタテ自身は焼かれていることに気付かぬうちに美しい焼き目が浮かんでくる。この見た目だけでボトル一本は空けられる。傍の茸は?
「セップです。イタリアだったらポルチーニ」
――日本語だとヤマドリダケですね
脳のシワの隅っこから必死で掻き出した知識でリターンすると榎本さんにっこり笑う。こういうやり取り、たまらんのです。
ほどなくして、ストーブの脇へとフライパンをずらす。フラットトップは熱い部分とそうでないところがあるから、余熱で仕上げたり保温するには場所をちょっとずらす。時間を測ってずらしたのかと思ったら、実は榎本さん
「銅のフライパンだと、油の見た目で温度がわかるんです。熱伝導率のせいだと思うんですが、ほかの素材だとそうはいかないですねえ。で、ホタテは、全体に通すべき熱の8割を片面だけど通してしまうんです。水分の多い素材はあまり動かさずに片面をしっかり焼くのがいいんです」
ちなみに、このフラットトップも常に水平を維持するために定期的に「砥石をかけてまっ平にする」のだそうだ。
同時に進行していたチキンのローストは、ソテーというよりはロティールと言ったほうが伝わりやすいだろうか、厚手のステンレスフライパンにのせたきりじっくりそのまま。音が少しずつ変わっていく、ニンニクの香りがつけられるなか、傍では緑豊かなプンタレッラがさっと焼かれる。で、そのとき、ふわふわと立ち上る香りの旨そうなこと。
――このにおいで飲めます
「どうぞ、どうぞ」
榎本さん、にやりと笑う。で、このフライパンがまた
「20年くらい前にパリに行ったときに買ったものなんですけど、ステンレスの厚手のフライパンにステンレスで銅を挟み込んだ底をつけてあるんです。これで頑丈なのに熱伝導がよくなるんです。ただステンレスで挟み込んでいるから冷めにくくなっていて、制御がしやすい。肉はガマンして放置するように焼くから、これはいいんですよねえ」
そう言ってフライパンを語る榎本さん、どこか自動車エンスー(熱狂的マニア)っぽさがあるなあ、と思ったら、バイク好きであった。そして、そのバイクにまつわる話もあって……。
文:加藤ジャンプ 写真:岡本寿