東京に最盛期は100店舗近くもあった三好弥には、各店舗のコミュニケーションを図る場として「三好弥会」という会がありました。平成の初期に解散してしまったそうですが、その最後の会長を務めた人が錦糸町・三好弥の主人でした。三好弥を最もよく知る人物のひとりが語った歴史とは。
明暦3年1月18日(1657年3月2日)、本郷の法華宗・本妙寺から上がった炎は瞬く間に江戸の町を焼き尽くし、江戸城天守閣も焼け落ちるほどの大火となった。死者は10万人を超すともいわれ、戦争や災害によるものを除けば日本史上最悪の火災、いまも講談などで語り継がれる「振袖火事」である。
その教訓から、幕府は市中の家屋密集を避けるため大川(隅田川)を挟んだ対岸に土木事業を施し、新たな町を作ることを決めた。
明暦の大火から2年後、低湿地帯であった本所に横十間川や堅川、大横川の掘削を開始、さらに南・北割下水などの掘割も整備され、土地は乾く。運河や掘割沿いに町が栄え、岡場所などの色街もできた。池波正太郎が小説「鬼平犯科帳」で描いた火付盗賊改方長官・長谷川平蔵は、「本所の銕」と呼ばれた若き日にこの地で放蕩・無頼の限りを尽くした。
通称「錦糸堀」、南割下水には江戸時代からの怪談話も伝えられている。この堀で釣りをして帰る人に、どこからともなく「おいてけ~」という声が聞こえ、釣った魚を置いていかないと霊体験に遭う。それが現在「置き去りにされる」という意味で使われる、「おいてけぼり」の語源となった。
錦糸堀は昭和初期に埋め立てられ、現在は北斎通りという。
関東大震災で被害を受けた製菓会社や菓子問屋が、昭和3年に神田岩本町から錦糸町へと集団移転してきたことによって、駅北口は「お菓子の町」として発展した。そんな町の一角に、錦糸町・三好弥がある。
扉を開けると4人がけテーブルが6卓。新しくはないが清潔に保たれている店内は心地が良く、かつ懐かしさも感じる。出迎えてくださったのは初代店主の鬼頭斗(はかる)さん(81)と妻のセイ子さん(76)、息子さんで2代目の稔さん(50)。いまはご家族で営まれている。
この日いただいたのは「三好ランチ」(1,250円)。店名を名乗る商品だけあり、「これぞ洋食店のご馳走」と言わんばかりの料理が皿に並ぶ。しょうが焼き、ヒレカツ、エビフライ、カニクリームコロッケ、ハム。フライものが3種類そろうが、あくまでも口当たりはサクッと軽くて優しく、美味しい。小鉢の冷奴も箸休めとして良い働きをしてくれる。箸が進み、わずかな時間で残らず平らげた。
愛知県拳母町(ころも町、現・豊田市)出身の鬼頭斗さんは、中学卒業後に集団就職で東京に来た。
「その年は7、8人が三河から三好弥に就職したと思います。大門や人形町、神谷町や竹町の店に行った人もいました」
鬼頭さんは、小伝馬町・三好弥で働くことになった。わずか10坪ほどの店の2階に住み込み、給料は月に1,000円だったそうだ。
「4畳半の部屋で同僚4人と雑魚寝だし、給料も安くて。丁稚奉公みたいなもんです」
当時、ラーメンは1杯35円、カレーライスが60円。国家公務員の高卒初任給が5,900円(※1)の時代だが、それにしても安い。給料は毎年1,000円ずつ上がり、10年目には1万円になった。
お小遣いに困りましたかと問うと、「でもね、休みは月1回だけ。それもランチが終わってからの半日で、夜の片づけも手伝うことになってたんですよ」。その頃の洋食店はとにかく忙しく、お金を使う暇もないほどに働いた。
「レナウンやワコール、福助なんかもお得意さんでね。一度に何十食もの出前の注文がいくつも来ました」
小伝馬町周辺はかつて、繊維商社やメーカーがひしめく繊維街だった。「糸へん景気」と呼ばれたそのころ繊維業界は花形産業であり、それらの社員は昼も夜もなく働き、彼らの労働を食で支える洋食店は昼も夜も出前に走った。
「手を動かせばお金になる時代でした」と、鬼頭さんは笑う。それほどに出前の夜食で空腹を満たし、残業をこなす社員たちがいた。
しかし、昭和50年代半ばあたりから繊維業界には陰りが見え始め、昭和60年9月22日の「プラザ合意」を起点とするバブル崩壊後には衰退、底なしの苦境に入る。
鬼頭さんが10年の修業を経て独立したのは昭和40年のことだ。大門・三好弥で働いていた、愛知県高浜町(現・高浜市)出身で5歳下のセイ子さんと所帯を持ち、錦糸町に店を構えた。
独立後も日本経済は右肩上がりの成長を続けていた。付近の企業や菓子商店の人たちなどが訪れ、出前も多かった。同僚と分業ができた修業時代とは違い、店内の注文と出前を一人でこなすのは大変なことだ。三好弥の仕事をよく知る妻の働きぶりは心強かったに違いない。店は繁盛し、親方から借りた開業資金は2年半で返済が済んだ。弟子も取り、南砂町と羽田にものれん分けをさせた。
独立後まもなく一門ののれん会である「三好弥会」の役員を任され、のちに会長も務めた。鬼頭さんは、三好弥の歴史を最もよく知るひとりである。
「長谷川好彌が創業した店は戦争で閉めて、他の三好弥の人たちの中にはいったん三河に帰った人もいると聞いています。戦後に好彌の兄弟や息子、親族などが、それぞれの三好弥を再開したそうです」
戦争で途切れたかに思えた三好弥の系譜は、これらの店が再開したことで再び続いてゆく。
「神楽坂、人形町、向島、江戸川橋、柳町(※2)、神保町、小伝馬町、竹町、新富町、大門、黒門町の三好弥がその時期に再開した店です」と、鬼頭さんは淀みなく挙げられた。
連載2回目に取り上げた千束・三好弥も含め12店が、三好弥の「第2期」ともいえる時代を築いていった。
特に、神楽坂・三好弥系の神保町・三好弥と、田端新明町・三好弥系の小伝馬町・三好弥のふたつの系統が最も多くの弟子をのれん分けさせ、一門のすそ野を大きく拡げた。
最盛期には「98店舗ありました」と、鬼頭さんはその数を明確に話された。三好弥会が目指したとされる「130店舗」には、廃業や一門からの離脱もあり届かなかったが、それにしても短期間でのこの拡大はすごいとしか言いようがない。ひたすら経済成長してゆく時代の中で三好弥一門もまた、その存在感を示した。
しかし、めまぐるしい時代の変化が三好弥にものしかかってくる。昭和45年7月7日に「すかいらーく」が開業したのを皮切りに、40年代後半から50年代にかけてファミレス・チェーンが乱立しはじめる。また、昭和49年5月に「セブンイレブン」、昭和51年6月には「ほか弁」の1号店が開店。大手資本による外食・中食産業への参入も始まり、食生活は多様化した。
そして、空前の好景気「バブル」へと突入してゆく。日本は「豊か」になった。
いま、店は息子の稔さんが継ぎ、ご両親が支えている。子どもの頃から当たり前のように手伝いをしていた彼は、高校を出ると迷うことなく店に入った。
「いまの時代、炭水化物や揚げ物を食べない人も増えたし、まあ楽ではないですよ」と話す。新型コロナの感染拡大により、外食を控える人も多い。在宅勤務が増え、付近の会社にも出勤する人は減った。飲食店には苦難の時期が続く。
しかし、両親の働く姿を見て育った彼は、この店や仕事への愛着もひとしおだ。小学校で将来の夢を聞かれたときは、「三好弥の2代目になりたい」と答えていたそうだ。
店をやっていて嬉しいこともある。数年前、ふらりとやってきた日本語の話せないカナダ人の男性がなぜかこの店を気に入り、毎年来日するたびに食べに来てくれる。そうして思わぬ人との縁がつながることもある。だから、初めて訪れた客にも気さくに話しかけ、食事を楽しんでもらうことを心がけている。
「大変だけど、できる限り続けていきたいですね」。そう言って稔さんは人懐っこい笑顔を見せた。
※1 国家公務員・高卒初任給は、人事院資料「国家公務員の初任給の変遷」による
※2 この「柳町・三好弥」は長谷川好彌が創業した店ではなく、神楽坂・三好弥からのれん分けされた別の店
文・写真:藤原亮司