都内各地に存在する「三好弥」という屋号の洋食店、またはとんかつ店をご存知ですか?大抵の場合、そのたたずまいは「昭和の風情」といった感じの店。どこかの町の三好弥で一度は食事をしたことがある、という方も少なくないのではないでしょうか。それぞれの店にはどのような関連性があり、どんな歴史をたどってきたのか?その疑問を解くために、三好弥の系譜をたどります。
1970年代に連載され、アニメ化、舞台化もされた人気漫画である大和和紀さんの「はいからさんが通る」には、大正期の小石川区柳町が主な舞台のひとつとして描かれている。現在の文京区小石川である。
主人公の花村紅緒が通う女学校は、かつてこの地に校舎を構えていた跡見学園がモデルである。柳町という響きのいい町名はいま残ってはいないが、跡見学園の跡地に建つ柳町小学校に、わずかにその名を残している。
「はいからさんが通る」と同時代の大正8年(1919年)、柳町に一軒の洋食店が開業した。当時、洋食と言えばまさに「はいから」で贅沢なものだったが、その店は「實用(実用)洋食」を謳い、比較的安価で庶民にも手が届く洋食店を目指した。大正から昭和にかけて付近には複数の女学校が建ち、また白山通りを挟んだ東側には三業地があった。多くの女性も行き交う、華やいだ町であったに違いない。
店主は愛知県高浜町(現・高浜市)から上京し、神田の洋食店で修業をした長谷川好彌氏。故郷の三河と自身の名前を合わせ、店名を「三好彌」とした。好彌はのちに三河から兄弟や縁者を呼び、弟子として修業をさせた。私が知り得た限りでは7人がのれん分けを許され、新たな「三好彌」を開店させたという。
戦後には弟子の店からのれん分けされて一門が増え、「三好彌会」も結成された。創業時は純粋な西洋料理店だったそうだが、のちにとんかつなどのフライもの、オムライスやカレー、丼もの、ラーメンや餃子も扱うようになり、メニューにはずらりと「昭和のご馳走」が並んだ。
「一門130店」を目指したが、のれん分けを許されるには10年の修業が必須という厳しい条件があり、また一門からの離脱や廃業もあって目標には届かなかったようだ。それでも昭和40~50年代には都内を中心に約90店が存在したと言われている。まさにファミレスの先駆けともいえる。
平成初期には都内を中心に60店近くあった三好弥(現在は「弥」と表記)も、いまは都内に26店、三河安城市に1店、所沢に出前だけを行なう店が1店となった。柳町の創業店もいまはない。
私が住む町に隣接する葛飾区四ツ木にも、かつて三好弥があった。前を通るたびにその店構えが気になっていたが、入りそびれるうちに2、3年前に廃業されてしまった。昨年の夏、近所で昼ご飯を食べようと定食屋さんを探しているとき、近所にも同じ屋号の店があることを知った。その日から私の三好弥めぐりが始まった。
「せんべろの町」と呼ばれ、遠方や他県からも酒飲みたちが訪れる葛飾区立石。京成押上線の高架工事で飲み屋街の一部は取り壊されたが、それでも数多くの飲み屋や飲食店が、京成立石駅を挟んだ南北わずか200メートル四方に存在する。駅北側の飲み屋街が途切れたあたりから京成青砥駅方面に5分ほど歩いた場所に「立石・三好弥」はある。
店に入ると、この年代の女性としてはすらりと背が高いおかみさんがニコリと出迎えてくださった。メニューにはハンバーグ、ヒレカツやエビフライなどの揚げ物、丼もの、ラーメンと決して目新しくはないが、食欲をそそるご馳走がずらり。頻繁に通っても飽きそうにない。手書きのメニューには日替わりの酒の肴も揃っている。
注文したハンバーグ定食が、鉄板に乗せられて届く。下にはキャベツともやし炒めが敷かれ、目玉焼きが添えられている。洋食店でいただく料理に目玉焼きがついていると、それだけでごちそう感が一段上がったようで嬉しくなる。定食には冷奴もついて850円、単品なら600円。これだけでビール2本は飲めそうだ。
長谷川好彌氏の孫弟子にあたる江戸川橋・三好弥、神谷清一氏の元で修業をされた店主の碓井徹さんは、昭和56年(1981年)3月にのれん分けを許され独立。昭和47年に結婚した妻・広子さんは、神谷清一氏の末娘である。
馴れ初めはまるで恋愛ドラマのようだ。映像制作の仕事をしていた徹さんは、渋谷の喫茶店で働いていた広子さんとは顔見知りだった。その後、都内のいくつかの場所で偶然に顔を合わすことが続き、「運命を感じた」。
娘との結婚を許すために出された条件は、「料理人になること」だった。セブンイレブンは昭和49年5月、「ほか弁」は昭和51年6月、ともに1号店が開店、世の中にはまだコンビニもほか弁もなく、洋食店には昼夜を問わず客が溢れていた時代。父親は娘に苦労をさせないようにと考えたのかもしれない。徹さんは映像制作の夢を諦めた。
「修業はとても厳しかった」と話す。理由も聞かされないまま、先輩から何度も何度もダメ出しをされ続けたオムライス。ある日、それを食べた客が「美味しかったよ」と言ってくれたときは店の裏で嗚咽した。「ほろっと涙がひとつ出て、そのあとは止まらなくなりました」。
何の所縁もなかった立石に来た当初、都会育ちの広子さんは「なんて田舎なんだろう」と感じたそうだ。「なのに飲み屋と酒屋がやたら多い変な街だなって」と笑う。ときにはケンカもしながら夫婦で守り続けた店。常連さんたちの食卓として、すっかりこの町に馴染んだ。
ひとしきり話を聞き終えたとき、徹さんは広子さんを見やりながら、「よくやってくれたと尊敬してます。私ね、今でも惚れてるんですよ」と、やや照れながら言った。
文・写真:藤原亮司