「イタリア軒」は現存するもっとも古い本格西洋料理店。明治の頃から新潟県新潟市で営業を続けている。日本初のイタリア料理店でもある。さらに日本のミートソースの発祥でもあるという。
なぜ、イタリア?
新潟市にあるホテル「イタリア軒」を初めて訪れる人は、まず最初に、その疑問を抱くのではなかろうか。
それはね……と、手ぐすね引いて語らせて頂くならば、ホテルの前身は、イタリア人が始めた西洋料理店だったからである。
そのイタリア人とは、明治7(1874)年の夏に新潟港にやってきたピエトロ・ミリオーレ。彼は、フランスの曲馬団に雇われた青年コック。しばしの滞在のみで新潟を去るはずが、大怪我をしてしまったがために曲馬団が去ってしまったあとも新潟に一人取り残されることになる。
同じく曲馬団に雇われていた現地の権助・おすい父娘は、ミリオーレに大いに同情し、手厚い看護を続けたという。この話を耳にし、心動かされた県令・楠元正隆が当時では大金の200円を出資し、ミリオーレに牛鍋屋を開くことを薦める。それを実践したミリオーレの牛鍋屋は大繁盛となったが、明治13(1880)年の新潟の大火で店は焼失。けれども、新潟の人々の励ましにより、ミリオーレは、新潟市西堀に店を再建する。この波乱万丈のドラマののちに誕生したのが日本初の本格的西洋料理のレストラン「イタリア軒」。以来、歴史を刻むこと140余年。函館「五島軒」、上野「精養軒」と並ぶニッポンの洋食御三家として、その名を知られてきたのである。
ホテル内の西洋料理店は「リストランテ・マルコポーロ」と名を変えたが、この店が発祥であるとも言われるスパゲティミートソース(正式名称は「伝統のボロニア風ミートソース」)は今も人気メニューとして健在だ。
「発祥といっても諸説あるのですが」と謙虚な前置きをして、その来歴について教えて下さったのは、新潟古町生まれの総料理長・関本拓夫さん。
スパゲティミートソースは、30年以上前に関本さんが入社した頃にも、すでにホテルの名物として人気であったという。
「このホテルには1920年のレシピ本が残っているのですが、その中にバンカ(トマト)の文字があります。イタリア料理ですからパスタも出していたのではと思います。もともとが牛鍋屋ですから、ミンチの肉をまかなってミートソースもつくったのではないでしょうか」
ここから名物のスパゲティミートソースは、全国にじわじわと広まっていき、すでに大正時代には銀座の洋食店でも提供されていたという。
ちなみに国内のスパゲティとしては、日清製粉が1956年に「ママースパゲティ」を発売し、1959年にはキューピーが缶入りのミートソースを発売。これで一気にスパゲティミートソースは、家庭料理の一品に。喫茶店の人気メニューにもなっていく。
しかしながら。
「ここでは、喫茶店ではなく、レストランの味をお出ししなければ。かつては、伝統的なレシピに忠実であったようですが、昔の柔らかいスパゲティを今の時代にお出しするわけにもいきません」と関本さん。
ソースづくりでは大量の野菜を「人の胴体よりも大きい」という大鍋に仕込む。焦がさないように弱火でコトコト火を入れ続けること2時間。しばし休ませ、また火を入れる。それを何度か繰り返して、野菜の甘味を引き出すまでには、丸2日間かかるという。
「この過程では、効率化はいたしません」。手をかけ時間をかけ(おお、だから手間と言うのだ)というミートソースには、野菜と肉の旨味がぎゅっと凝縮。ゆでたてアルデンテのパスタと絡めた味わいは、手間のソース、手際のパスタの組み合わせで、巷のスパゲティミートソースとは一線を画した味わいだ。
もうひとつの名物、「イタリア軒伝統のチキンカレーライス」でも、効率無視は同じ。野菜をじっくりと炒めた後にピューレ状に。そこから各種スパイスを加えたカレーは、まずは野菜の甘味が先に感じられ、辛味があとから追いかけてくるという欧風カレーだ。
伝統をベースにした最先端、をレストランで味わったあとは、ホテルの2階へ。ここには、「イタリア軒」が西洋料理のレストランとしてオープンした明治14年当時の外観や初代ミリオーネの写真を展示されている。数々の美しい調度品とともに古き良き時代の写真を眺めていると、ここが長く人々の憧れを集めてきた場所であったことに納得がいく。
文:藤田千恵子 写真:当山礼子