夜は芸者衆がお座敷に上がる料亭に、ランチで訪問できるとは――。東京都立浅草高校夜間部(正しくは、昼から夜の授業を担当する三部制B勤務)国語教師、神林桂一さんによる浅草エリアのランチ案内です。足を運んで、食べて選んだ自作ミニコミ「浅草ランチ・ベスト100」より、浅草花街の歴史ある料理屋を紹介します。
「割烹家 一直(いちなお)」は、江戸料理の流れをくむ、浅草でも屈指の会席料理の老舗名店だ。昭和初期までは「五軒茶屋」(一直・草津・松島・大金・萬梅)と呼ばれる浅草の代表的な料亭の1軒だった。
「懐石」は「温石(おんじゃく)で腹を暖めるのと同じ程度に腹中を暖める軽い食事」の意で、「茶会の料理」を指す。一方「会席料理」は「宴会の料理」、つまりお酒をおいしくいただくための上等なもてなし料理のこと。
「江戸料理」は「大名料理」がルーツで、参勤交代で国に帰る時にも食べる折り詰め料理として常温で3日間もつようにつくられた。そのため味が濃いのが特徴だ。
「一直」の歴史は江戸時代にまで遡る。HPを参考にまとめてみよう。
初代は埼玉県鴻巣で生け花の師匠をし、茶店を営んでいた。その号「鳥松齋貞一直(ちょうしょうさいいっちょく)」から店名が生まれる。三代目が浅草「奥山の一直」を明治11(1878)年に創業。桜の名所だったことにちなんで看板料理は「桜豆腐」だった。
江戸時代の「奥山」は、浅草寺本堂の北西一帯を指していたが、明治になると「花やしき」の辺りに移っていた。「一直」は、当初は「花やしき」の裏側にあったのだ。庶民的な店だったが、大正時代・四代目の時代には、各界の著名人が顧客に名を連ね、1日に350~400人の客が入り、料理人40人、従業員100人、敷地600坪の高級料亭と成長する。
関東大震災とその後の大火で2度も消失してしまうが、その都度建て直された。しかし、戦争に伴う「建物疎開」(空襲による延焼を避ける防火地帯を設けるために建築物を撤去すること)により取り壊されてしまう。浅草寺を火災から守るためだ。
だが、そんな計画も空しく、東京大空襲で浅草は壊滅的な被害を受ける。「一直」が現在の地で再開するのは昭和26(1951)年だ。規模も縮小して割烹となった。
話は前後するが、五代目は銀座「竹葉亭」・人形町「濱田屋」など5人で昭和5(1930)年に「芽生会(めばえかい)」を立ち上げる。これは、当時は封建的で主人に対して発言権がなかった老舗の若主人たちが集まった勉強会で、今では有名料理人による全国組織に発展している。そして、五代目は関西料理の要素を取り入れ、「一直」の料理に改革をもたらした。
現在は、六代目の親方・江原(えはら)仁氏、女将・圭子さん、七代目の若旦那・正剛(まさたけ)氏を中心に店を守っている。
親方は、オーストリアの日本大使館料理人、「芽生会」会長、・「全国料理環境衛生同業組合」副組合長などを歴任された日本料理界の重鎮だ。若旦那も「東京浅草組合」組合長をなさっている。これは浅草三業組合のまとめ役のことだ。今回の取材は、若旦那にお願いしている。
花柳界・花街のことを「三業地」とも呼ぶ。「料理屋(割烹料亭)・待合茶屋(料亭)・置屋(芸者屋)」の三業が公安委員会から営業することが許可されたと土地のことだ。待合茶屋が貸座敷として遊びの場を提供し、そこに置屋から芸者を呼び、料理屋が料理を供した。その調整をする事務所が「見番(けんばん)」だ。「置屋」とは、芸者が所属する「家」のことで、花街の門をたたいた少女を住み込みで修業させ、一人前に育て、客の求めに応じて座敷に芸者を差し向ける。今では料亭が料理屋と待合とを兼ねている場合も多い。
「東京六花街(ろっかがい)」と言われるのは「芳町・柳橋(衰退後は向島)・新橋・赤坂・神楽坂・浅草」で、その他にも深川(辰巳芸者)・神田(講武所芸者)・根岸・四谷荒木町・大森・大塚・八王子・渋谷円山町など多くの花街が存在した。中でも東京で最も古い歴史を有する花街は浅草である(松川二郎「三都花街めぐり」誠文堂)。
浅草は大正末期には、料理屋49軒・待合茶屋250軒・芸者衆1,060名を誇った。だが現在は時代の変遷とともに、料亭・料理屋6軒、芸妓は地方(三味線と唄)5名、立ち方(踊り手)20名の計25名ほどになっている。見番も健在である。
花柳界の女性は芸妓(げいぎ)が正式名称だが、文章語のようなもので「げいぎさん」とは呼ばない。一人前と見習いとに区別され、東京では「芸者」・見習いを「半玉」、京都では「芸妓(げいこ)」・見習いを「舞妓(まいこ)」と呼ぶ。
ランチの名物「鯛茶漬け」は10食限定。予約が望ましい。真鯛の刺身を最初は本ワサビと醤油で、次に特製胡麻だれをつけて、そして最後にお茶漬けでいただく。「鰻のひつまぶし」のように3回愉しめるのだ!
この日は女将さん自ら盛り付けてくださった。まず鯛にたっぷり胡麻だれを絡めてご飯にのせ、その上に塩昆布・ミョウガ・大葉などの薬味を散らし、熱々のだしを注ぐ。蓋をして10秒ほど蒸らし、海苔をたっぷりかければ完成だ。
濃厚でクリーミーな胡麻だれ・上質な昆布と鰹でとっただし・鯛の旨味、そして驚くほど薬味を使うのだが、それらが一体化し、絶妙のハーモニーを奏でる。
多くの店で鯛茶漬けを食べたが、「一直」にかなうものはない。なにしろ他店とは違い、鯛が豪快に厚切りにされているのだ。薄切りだと、すぐに煮えてホロホロと崩れえてしまう。「一直」の鯛は歯ごたえが残り、満足感が桁違いなのだ。
あぁ、書いているだけでヨダレが出てきてしまう。若旦那が九州の鯛茶漬けをヒントに考案したもので、まさに絶品! 一度はご賞味あれ。
ランチメニューには「銀鱈西京焼」や「プチ会席」(要予約)もある。江戸料理の代表は煮物。また、名物「桜豆腐」は、クルマエビ(昔は芝エビ)と桜の塩漬け、そして吉野葛の餡かけ豆腐だ。
以前は「一見(いちげん)さんお断り」だったが、宣伝をしない代わりに、ランチで店の味を知ってほしいと始めた。夜のコースと同じ厳選素材を惜しみなく使っており、ランチは儲け度外視だという。行かないという手はない!ランチメニューには「銀鱈西京焼」や「プチ会席」(要予約)もある。江戸料理の代表は煮物。また、名物「桜豆腐」は、クルマエビ(昔は芝エビ)と桜の塩漬け、そして吉野葛の餡かけ豆腐だ。
以前は「一見(いちげん)さんお断り」だったが、宣伝をしない代わりに、ランチで店の味を知ってほしいと始めた。夜のコースと同じ厳選素材を惜しみなく使っており、ランチは儲け度外視だという。行かないという手はない!
2009年にきれいに建て直され、それを契機に関西割烹のような白木のカウンターを設けた。客側も調理を見ることができて愉しいし、親方や若旦那と会話もできる。料理する側にも緊張感が生まれ、客の反応も感じられ遣り甲斐があるとおっしゃる。
夜のコースは、お酒・サービス料も含むと2万円位から。芸者さんを店に呼んでもらう「花代」は、ご祝儀込みでおおよその平均予算は芸者さん1人につき25,000 円。お客5人で伺えば1人頭5,000円。これだったら「芸者を揚げる」のも夢ではない!
芸者の「乃り江さん」は、「『一直』は浅草でも別格の店です。でも、夜のコースを食べないと本当の価値は分かりません」とおっしゃる。ハイ、僕も頑張ります。乃り江さんは観音裏で「お茶屋さろんKaSHiMa」というBarをなさっており、僕も時々伺うのだが、紹介制なので悪しからず。
僕の「観光客の知らない浅草」シリーズも、今回で〆となります。前シリーズの「ひとり飲み案内」で12軒、当シリーズ「浅草ランチ・ベスト100」から26軒、計38軒を取材してご紹介しました。
最近では店や街角で声をかけていただくことも多く、嬉しい限りです(でも悪いことはできなくなりました)。
読者の皆さん、「dancyu web」編集担当の沼由美子さん、「寫眞室 カワウソ」の大沼ショージさん・萬田康文さん、本当にありがとうございました。
愉しく、勉強になり、充実した、そして何より美味しい取材でした。
このシリーズで取り上げた店に行かれる際には、ぜひ「神林の記事を見た」とおっしゃってくだい。1品増えはしませんが、きっと歓待していただけると思います。また写真のような「千社札」が、僕の行きつけの15軒限定で貼ってあります。見つけても賞品はありませんが、僕からの「美味しさのおすそ分け」です。探してみてくださいね。
――シリーズ「観光客の知らない浅草~浅草高校・国語教師の浅草ランチ・ベスト100~」 了
文:神林桂一 写真:大沼ショージ、萬田康文