選び抜いた魚に仕事をした鮨種。ひと口頬張るたびに目尻が下がる。東京都立浅草高校夜間部(正しくは、昼から夜の授業を担当する三部制B勤務)国語教師、神林桂一さんによる浅草エリアのランチ案内です。足を運んで、食べて選んだ自作ミニコミ「浅草ランチ・ベスト100」より、江戸前の仕事が冴える鮨店を紹介します。
今回は「握り鮨」だ。「江戸前鮨」ともいい、江戸前(江戸湾の漁場)の豊富な魚介類を材料とした鮨のことだ。江戸前は、古くは鰻に使っていたという。
握り鮨は、新鮮な魚と酢飯(シャリ)とを手早く合わせて食べる「早ずし」で、屋台で売られ、気の短い江戸っ子には大人気となった。江戸の文化が生んだ鮨だ。文政年間(1818~1830年)に誕生したと言われ、一般的には両国橋近くの「與兵衛鮨」(よへえずし・1824~1930年)の華屋與兵衛が考案者だと言われる(「碑文 与兵衛鮨発祥の地」墨田区教育委員会)。
「昔の握りは大振りだったので、ふたつに切って提供した名残で、現在でも“お好み”は“二丁づけ”される」という説は、よく出来た話だがふたつに切るのが標準だった時代は無く、二丁づけは戦後広まったという(宮尾しげを『すし物語』講談社学術文庫)。
ここで僕の鮨歴を少し。大学生から教員になり立ての「青二才」の頃は、本来は客側が使うと無粋な鮨屋の「符丁」を使って粋がっていた。シャリ・ヅケ・ツメ・サビなどは一般化しているが、ギョク(玉子焼き)・キヅ(かんぴょう)・ムラサキ(醤油)・ナミダ(わさび)・ゲタ(漬け台)・アガリ(お茶)・オアイソ(お勘定)などは、今使うと恥ずかしい(「ガレージ=シャコ」なんてオヤジギャグ風は昔も恥ずかしかったけど)。
山本益博氏の『東京味のグランプリ』(講談社・1982~1986年、後は『味グラ』と表記)という本をご存じだろうか。それまでも『東京いい店うまい店』(文藝春秋・1967年)、山本嘉次郎『たべあるき 東京地図』(昭文社・1972年)、石川テルオ『プレイタウン東京』(新声社・1976年)、街歩き情報誌「月刊アングル」(主婦と生活社・1977年創刊)、高橋幹夫『TOKYOグルメブック』シリーズ(柴田書店・1980年)などを参考に食べ歩いていた僕が、本格的な店に通うようになる契機となった本だ。「日本初のミシュラン方式の味のランキング」が売りで、東京を代表する味を「3ツ星~無星」の4段階評価をしている。
益博氏といえば、後にフランス料理店の取材過程で肝臓がフォアグラ状態になって入院したことでも有名だ。この本ほど僕の血となり肉となっている本は他には無い。漫然と食べるのではなく、一軒一軒、評論家の舌と自分の舌とを比べながら食べ歩いたからだ。
この時期、僕は『味グラ』を手に、片っ端から店を食べ歩いた。1982年版では全200軒中186軒(93%)・鮨屋38軒中32軒(82%)、1984年版では全365軒中299軒(82%)・鮨屋70軒中42軒(60%)に行っている。この数年間の経験が僕の味覚の基礎となったのだろうと思う。
当時「銀座鮨御三家」と言われた「なか田」(閉店)・「久兵衛」・京橋「与志乃」の他、名人と呼ばれた浅草「弁天山美家古寿司」の四代目(先々代)・内田栄一氏、神保町「鶴八」の先々代・師岡幸夫氏、人形町「㐂寿司」の三代目・油井隆一氏(dancyu web「『㐂寿司』の365日。」参照)、「すきやばし次郎」の小野二郎氏(現役)の握りも食べておいて良かった。もちろん後述する御徒町「寛八」にも通った。
浅草六区興行街の入口「すしや横丁」には、明治時代には18軒もの鮨屋が連なっていたというが、今は2軒を残すのみで寂しい。しかし、浅草には今でも有名店が数多(あまた)存在する。「浅草ランチ・ベスト100」にリストアップした「弁天山美家古寿司」は慶応2(1866)年創業の浅草最古の鮨屋で、昔からの江戸前の仕事を残す店として有名だ。僕も祖父の時代から三代通っている。「紀文寿司」も明治36(1903)年の老舗だ。
浅草観音裏にも名店が点在する。僕が食べた店は、老舗「栄鮨」(1949年)、地元で人気の「清司」(1982年)、台東区初の『ミシュランガイド東京』で1ツ星を獲得した「鮨一新」(1992年)、銀座「久兵衛」出身の「久いち」(2005年)などだが、中でも新しい実力店が「鮓 かね庄」(2017年)だ。
「鮓 かね庄」は、惜しまれつつ閉店した江戸前の名店・御徒町「寛八」(1966~2018年)出身だ。江戸っ子気質(かたぎ)の親方・山田博氏は、84歳まで現役を貫いた。「鮓 かね庄」の大将・渡辺彰さんは、この「寛八」で16年間腕を磨いた職人だ。他にも船橋「おかめ鮨」・錦糸町「鮨 たか橋」も「寛八」出身である。
店名の「かね庄」とは、北海道江差近くの元漁師だった渡辺さんの実家の屋号だという。北の海の潮の香りがするようだ。「鮓」は最も古くからの表記で、「魚+作る」ではなく「魚+酢」が字源である。
「かね庄」の鮨は伝統的な江戸前で、「煮切り」(醤油・酒・みりんなどを煮切った調味料)をひいて一貫ずつ提供する。「煮切り」や穴子などの「ツメ」(穴子の骨を煮詰めた調味料・タレではない)は、その店の「顔」・大切な個性となっている。屋台時代は、煮切りは客が自分で刷毛で塗って手づかみ食べ、大きな湯飲み茶碗で指を洗い、店の暖簾で手を拭いて帰った。だから「暖簾が汚れているほど繁盛店の証」とされていたという。昔の様式を残す吉原「満す美寿し」(1959年)や浅草橋「美家古鮨 立喰部」にはカウンターに手洗い用の蛇口が付いていた。
「寛八」の親方は、「いいことはマネしろ」と言っておられたそうだ。づけ・白く仕上げる穴子・蛤(はまぐり)・玉子焼き・かっぱ巻きなどは「かね庄」によって引き継がれている伝統の味である。1日漬け込んだ蛤は、他の店の煮蛤のように硬くなくジューシーに仕上げている。芝海老のすり身を入れた玉子焼きは、昔からの手法でカステラのように焼き上げ「鞍掛」(くらかけ・馬に鞍を掛けたように玉子でシャリを包む)にして提供する。細切りしたキュウリを束ね、白胡麻と特製の昆布塩で味付けする“かっぱ巻き”は「寛八」の名物だったものだ。
渡辺さんは伝統の上に胡坐(あぐら)をかいている訳ではない比較的大粒の筑波米を取り入れた酢飯は、一粒一粒がほろりとほどける。見事な小豆色のタコは、「寛八」の煮蛸を越える柔らかさを目指して何匹も試行錯誤した力作だ。その他のネタも同様で、伝統はただ守るものではなく、進化しながら伝承されていくものなのだろう。
「かね庄」の鮨は、他の一流店に比べリーズナブルだ。殊に、このクラスの店がランチを出してくれているのは有り難い。「バラちらし」2,300円には、今述べた穴子・タコを始め、マグロの赤身・白身・光物・ウニ・イクラなど10種類ほどのネタが並んでいて目にも美味しい。「大将お任せ握り」11貫5,000円には巻物・サラダなどが付く。夜のコースは9,500~15,000円だ。人気店の仲間入りをしているので、昼・夜ともに予約した方が安心だ。
奥さんの実家に近いという縁から浅草に店を出した。店構えもこざっぱりしており、白木のカウンター9席。掃除の行き届いた落ち着いた空間だ。「寛八」の山田氏には『こころで握る』(メタブレーン)という著書がある。山田氏からは、よく「人の思っていることは形に現れるものだ。店もきれいに保たれていないと良くない客が入ってくる。常に清潔にしておくと良い客が集まる」と聞かされたという。店構えが、逆に客を選ぶのである。その哲学も「かね庄」にしっかりと受け継がれているのだ。
浅草観音裏に加わった江戸前鮨の新たな名店。僕もつくり手に負けないよう、食べ手として「良い客」として選ばれるよう、襟を正して精進したいと思う(と言い訳しながら、ただただ食べ飲み歩く毎日なのであった)。僕も肝臓がフォアグラにならないよう気を付けたい。
文:神林桂一 写真:萬田康文