みんなの町鮨
「しんとみ」神奈川県鎌倉市|第十二貫(後篇)

「しんとみ」神奈川県鎌倉市|第十二貫(後篇)

訊かれれば答えるけれど、訊かれなければ何も言わない。北鎌倉の慎ましき3人家族による町鮨「しんとみ」は、なんと大正元年創業の108周年。なぜ鮨屋でラーメン?それは戦後、米不足で鮨じゃ商売ができなかった時代に、闇市で台湾人に教わった支那そばがルーツ。「しんとみ」を支えてくれた一品だから。

案内人

長野陽一

長野陽一

伝説の『ku:nel(クウネル)』を初期から10年以上にわたり撮り続けたほか、数々の雑誌で引っ張りだこの写真家。写真集も『長野陽一の美味しいポートレイト』(HeHe)など多数。イカワが長野さんを知ったのは2001年の写真集『シマノホホエミ』(FOIL)で、当時は読者として。まさか13年後に『dancyu』の連載「東京で十年。」でご一緒できようとは。自身を「料理写真家ではない」という長野さんの記念すべき『dancyu』初撮影は、壇蜜さんだったとか。

適度に放っておいてくれる楽ちんさ。

さまざまな雑誌で、おいしいお店を撮影している写真家の長野陽一さん。プライベートで行く店を選ぶときは、味と同じくらい居心地が重要なのだそうだ。
「お店の人の感じとか、お店自体の雰囲気とか。『しんとみ』は清潔で、人あたりがよくて、忙しくても淡々としたペースが変わらない」
店の忙しさが見えてしまうと、「今注文すると大変そうだな」などつい気を遣ってしまうし、逆に常連だからとべったりされるのも苦手な性分。適度に放っておいてくれたほうが楽ちんな彼に、「しんとみ」の距離感は好ましい。

お店のスタッフ

もう十年以上通っているのに、長野さんが会話を交わすようになったのはここ最近。北鎌倉のガイドブックで「しんとみ」を紹介したときに初めて、写真家だと名乗ってからだ。
挨拶もするし「『暮しの手帖』見てます」と帰り際に女将さんに声をかけてもらうようにはなったけど、その程度。

この度、お話を訊いてみたいという私の希望で、厨房から大将が上寿司を持って現れた。穏やかなお顔。角皿に盛られた握りと巻物は、帆立、鮪の中トロ、鮪の赤身、平目、玉子焼き、赤海老、煮穴子の握り、巻物は鉄火とカッパが交互に。なんて可愛い彩りだろう。これはきっと食べる人が楽しいように、という思いやりに違いない(内容は仕入れによって替わります)。

二・二六事件をきっかけに赤坂から海辺の町へ。

「しんとみ」は大将の福本勝也さん、女将の千恵子さん、長男の退治さんで営まれている。初めからお鮨とラーメンの店だったのですか?と訊ねると「いや、ラーメンは新しく、昭和25年からです」とおっしゃる。十分昔じゃないですか、と笑ったものの、創業は大正元年と聞いてひれ伏した。令和2年で108年である。

初代は大将の祖父で、明治生まれの福本退尼(たいじ)さん。伊藤博文が下関条約を締結したことでも知られる、山口県下関の料亭旅館「春帆楼(しゅんぱんろう)」で15歳から日本料理を学び、上京後は鮨屋で修業。大正元年、赤坂に自身の店を構えた。当初は福本の一字を取って「福寿司」、24歳だった。
しかし昭和に入ると軍国主義が台頭し、満州事変、五・一五事件と政情はきな臭くなっていく。赤坂は政治が動く町だ。昭和11年にはついに隣の永田町で二・二六事件が起きた。
「初代はそういう切った張ったの町が嫌で、海の近くの静かなところへ移ろうと思ったみたいです」

上寿司

昭和15年、鎌倉の材木座へ移転し「新富鮨」(当時)と名を改めて再スタート。しかし翌年すぐに太平洋戦争が勃発した。昭和20年にやっと戦争が終わっても米が手に入らず商売もできない。
そこで初代と、二代目の英男さん(大将の父)は新宿の闇市に露店を出したのだが、その隣にあったのが支那そば屋。親子は店主の台湾人から支那そば、つまりラーメンを出汁作りから教わったのだという。
「戦後すぐは米の商売が禁止されて、粉類だけは先に許可になったんですよ。昭和27年からお鮨ができるようになったので闇市を引き上げましたが、まだ委託加工といいまして、お客さんが持ってきた米でお鮨を握り、加工賃をいただくやり方でした」
苦肉の策で、委託の鮨と日本蕎麦を一緒に商う鮨屋は多かったが、こちらではラーメン。昭和30年に入り、委託でなく通常の鮨屋に戻ってからも、すでに看板の一つになっていたラーメンはそのまま引き継がれた。

なるほど~としみじみ頷く長野さん。大将とこんなに話すのも初めてなら、歴史を聞くのも初めてだ。
「お鮨屋でなぜラーメン?と今の人は思うかもしれないけど、ご本人たちにしてみれば自然な形、歴史がそうさせたという。すごいなぁ。こんなすごい歴史があるのに、奥ゆかしいというか、僕は10年通ってるのに何も知らなかった、という幸せ(笑)。お店の人がいかにお客のペースを乱さず、でしゃばらないかってことですよね」

「親父さん」が焼く昆布出汁だけの玉子焼き。

昭和30年代の日本は、経済成長によって、ものを作れば売れる好景気。「新富鮨」でも家族のほか従業員が6人の大所帯になる。材木座は7~8月の海水浴シーズンが書き入れどきで、逆に9月に入るとぱたりと静かな街に戻る。夏の2ヶ月で1年分稼ぐから、とにかく大忙しだ。

三代目の勝也さんは昭和17年生まれ。桑田佳祐や堺正章らを輩出した鎌倉学園高校を卒業してすぐ、関東では学べない箱寿司を知りたい、と大阪「吉野寿司」に入店。1年後に実家に帰り、父の下で修業した。
「私の父は75歳くらいまで店に立っていましたが、職人気質の気難しい人で」と勝也さんが笑うと、千恵子さんは「反対におばあちゃんは優しい優しいお姑(しゅうとめ)さん」としみじみ。天使のような2代目女将は、う免(め)さんという名前だ。

海沿いの材木座から、山間(やまあい)の北鎌倉に移ったのは平成9年。同時に店名を漢字からひらがなへ、やわらかに変更。するとここで長野さんが、長年の謎を四代目の退治さんに質問した。
「でも箸袋に書かれた店名はひらがなで『しんとみ』、看板は〝新〟が漢字ですよね?どっちが本当ですか?」
「箸袋のほうです。看板屋さんのアドバイスで、ひらがな4文字だと視覚的に目に入りづらいんだそうです。そこで外看板は3文字で、最初の〝新〟だけ漢字にしました」

箸袋

ついでに私からも。
この玉子焼きの黄色、橙色にも近い不思議な色はどうしてですか?
「色は卵によって違うみたいですよ。これは親父さんが焼いています」
退治さんは大将を「親父さん」と呼ぶのか。微笑ましいなぁ。その親父さんいわく、「普通の出汁巻き玉子」だという。ただ、出汁は鰹節を入れると「香りがちょっと強過ぎる」ので昆布出汁だけ。
出過ぎない、一歩引いたところの美しさ。なにごとにおいても、それが「しんとみ」のトーンであるらしい。

「しんとみ」では訊けば答えるが、訊かれなければ自ら話すことはない。
築地で魚介を仕入れ、豊洲になってからは藤沢の市場へ通っているということも、ラーメンのちぢれ麺はずっと鎌倉で昭和28年に創業した邦栄堂製麺所であることも、映画監督の小津安二郎が常連だったことも。
ただ日々淡々と、袈裟を着た和尚や、山歩きの格好をした人や、地元の家族がさっと食べ、さっと帰るだけだ。

すべてが善意だけでできている感じ。

「僕はなんでここのラーメンが、このお店がこんなに好きか。すべてが善意だけでできている感じがしませんか?値段だってすごく安いじゃないですか。ラーメンセットなんて、ラーメンに稲荷が2個ついて780円ですよ。だったら、お昼ごはん作るのも面倒だなぁっていうときに、じゃあ『しんとみ』いこうってなりますよね」
長野さんはいつも、妻と息子の3人家族で来るという。息子さんは上寿司、奥さんはラーメンか上寿司のどちらか。そんなふうにそれぞれが、自分の好きなものを食べられるのもいいし、お父さんが頼んだ鯵と小肌の握りを家族で分け合えるのもまたいい。

寿司

ちなみに奥さんとは多摩美術大学の油絵科で同級生だったそうだ。ってことは、長野さんはもともと油絵を描く人だったってことですか?
「前に話した気がするんですけど」
あははと笑いながら、絵を描く人は写真を撮るのもうまいのかな?なんて小学生みたいな質問にも真面目に答えてくれる長野さん。
「うーん、あまり関係ないと思いますけど、考え方やものの見方は違うかもしれませんね。僕の場合、露出とかシャッタースピードとかより先に、感じていることを定着したいっていう気持ちがきてしまう。本当はよくないかもしれないけど、それは写真だけをずっとやってきた人より強いかもしれません」
長野さんによれば「習性」が写真に表れる。油絵を経た写真家の習性……そのあたり、じゃあ次で。鎌倉まで歩いて、ちょっと吞みましょうか。

第十二貫(了)

店舗情報店舗情報

しんとみ
  • 【住所】神奈川県鎌倉市山ノ内376
  • 【電話番号】0467‐22‐1226
  • 【営業時間】11:00~15:00頃
  • 【定休日】水曜
  • 【アクセス】JR「北鎌倉駅」から2分

文:井川直子 イラスト:得地直美

井川 直子

井川 直子 (文筆家)

文筆業。食と酒まわりの「人」と「時代」をテーマに執筆。dancyu「東京で十年。」をはじめ、料理通信、d LONG LIFE DESIGN、食楽ほかで連載中。著書に『変わらない店 僕らが尊敬する昭和 東京編』(河出書房新社)、『昭和の店に惹かれる理由』『シェフを「つづける」ということ』(ともにミシマ社)。2019年4月にインディーズ出版『不肖の娘でも』(リトルドロップス)を刊行。取扱い書店一覧、ご購入方法はホームページ(https://www.naokoikawa.com)からどうぞ。