函館に「バスク」というスペイン料理店がある。サン・セバスチャンで修業した深谷宏治シェフがこの店を開いたのは1985年。日本では、まだスペイン料理店がほとんどなく、サン・セバスチャンが“世界一の美食の街”として知られることもなかった時代だ。日本におけるスペイン料理の先駆者として、また地域の活性を常に考えてきた深谷シェフが考える現状と課題とは――。 (この記事は、本誌4月号123ページ「Topics」に掲載した深谷シェフのインタビューの詳細です)
いま、日本におけるスペイン料理文化は“三本立て”になっていると思います。
ひとつは「バル」。これはスペイン料理の気軽な楽しさを広めましたね。ちょっとつまんで飲めるという日本人向きのスタイルでもあり、これからも広く根付いていくでしょう。
二つ目は「モダンスパニッシュ」。新しいスタイルで、星を狙うようなレストランですね。ただ日本では少なく、たとえばイタリアンでトラットリアは広く流行るけれど、リストランテに行く人がかなり限定されるように、あまり広がることはないかもしれません。
そして3番目は、ウチのような「伝統的なスペイン料理レストラン」。これがなかなか難しく、気軽さや値段の安さでみなさんバルにシフトしています。
ただ、「バスク」はなんとか35年やってこられました。それは、スペイン料理というよりレストランとしてきちんとしようと思ってきたからです。東京でもスペイン料理店があまりなかった時代に、函館で店を始めたのですから、お客さんはスペイン料理なんて知るわけがない。何料理かわからないまま食べて、「でもなんとなく美味しかったから、また来ようか」と。それがたまたまスペイン料理であったということです。だから、まずはレストランとしてお客様を楽しませることをきちんとやっていれば、伝統的なスペイン料理でもやっていけると思います。いまは流行のバルに引っ張られ過ぎている気がしますね。
この店も、最初のころはパスタなども出していましたが、徐々にスペイン・バスク料理を食べてくれる人が増え、いまでは多くのお客様がバスク料理を注文してくれるようになりました。そこに、地元の食材を使って、函館でしかできないバスク料理をつくってきたのです。「バスク」は、スペイン・バスク料理なのですが、食材はほとんど函館のものです。魚介や肉、野菜はもちろん、時季がくれば山菜やきのこも使います。料理のスタイルはスペインでも、地元でしか味わえない食を楽しんでほしいと思っています。
函館に限らず、日本は全国各地にそれぞれ素晴らしい食材や自然があり、各地にきちんとしたレストランが増えています。30年程前、僕は休みになるとよく日本のあちこちを歩き回りました。歩いてその土地の自然を感じて、レストランで地元の食を味わっていたのです。その頃は、まだ地元の食を生かしたレストランは少なく、スペイン料理に限らずに、それらを生かして、その土地ならではのレストランがもっと増えて、各地に根付いてくれたらいいなと思っていたのですが。そんな店が増えれば、そこに必要なレストランとはなにか、真っ当なレストランとはどのようなものなのかが、見えてくると思ったからです。
僕が願った通り、いまは各地で心ある料理人が素晴らしいレストランを開いています。こうしたことが、日本全体の食レベルを向上させることになっていると思います。
函館「レストラン・バスク」「ラ・コンチャ」オーナーシェフ。1947年、函館生まれ。東京理科大学卒業後、料理人を目指し、スペイン・バスク州のサン・セバスチャンで修業。帰国後、1985年に「バスク」をオープン。「バル街」などのイベントを立ち上げたほか、世界料理学会の開催に尽力するなど、函館のみならず日本の料理界振興のために活躍している。近著に『料理人にできること』(柴田書店)。
写真:今津聡子 文:編集部