浅草「花やしき」隣に、郷愁を誘う食堂があった……!東京都立浅草高校夜間部(正しくは、昼から夜の授業を担当する三部制B勤務)国語教師、神林桂一さんによる浅草エリアのランチ案内です。足を運んで、食べて選んだ自作ミニコミ「浅草ランチ・ベスト100」から「食堂・甘味」部門より、歴史ある「大衆中華」を紹介します!
大衆食堂とひと口に言っても、内容的にはまちまちだ。僕は、次のように分類している。
① 地元密着型、常連中心の町食堂。浅草では、リスト「浅草ランチ・ベスト100」に入れた台東区清川「日正カレー」や千束通り「ナカジマ」など。
② 食事処としても、昼飲みにも、夜は居酒屋使いもできるオールマイティな店。浅草では、リスト「浅草ランチ・ベスト100」に入れた名物店「水口食堂」が代表だ。
③ ランチ時にサラリーマンが行列する定食屋。新宿・新橋・上野・神田などには多いが、浅草はサラリーマンの町ではないので守備範囲外。
④ 観光客が多くやって来る食堂。浅草には、「君塚食堂」「まえ田食堂」「浅草ときわ食堂」など、明治・大正からの老舗が多い。
⑤ セルフで主菜・副菜・汁・ご飯などを選ぶ一膳飯屋。関西には多いが、東京ではあまり見かけなくなったタイプ。浅草には「かっぱ橋 ときわ食堂」が残る。
⑥ 「キッチン~」というネーミングが多い大衆洋食食堂。神保町「キッチン南海」「キッチン マミー」などが代表だが、浅草にも「ニュー王将」という名店がある(夜のみの営業で、前回の特集「一人飲みの店」でもリストアップした)。
⑦ 市場の場内・場外にある市場食堂。早朝から昼までの営業が多い。僕も築地場外市場・足立市場・葛西市場・船橋市場などに愛用店がある。
⑧ 公営ギャンブル場や場外馬券場の周辺に集まるギャンブラー御用達食堂。浅草では「初音小路」(後述)周辺が代表だ。
さて、今日ご紹介する「芳野屋」は、この中の①④⑧の顔を持つ特別な店だ。
嘉永6(1853)年開園の植物園からの歴史を持つ日本最初の遊園地「花やしき」の正門前に、昭和遺産的な大衆食堂がある。その名は「芳野屋」。絶滅危惧種的な戦後バラック建築だ(失礼な表現で申し訳ないが他に言い様がないので)。
まず、店内に足を一歩踏み込んだ瞬間、時空を超えたような錯覚にとらわれる。
「ここは本当に現在の東京なのか?」
――これは山谷「大林酒場」で受けたのと同じ衝撃だ。壁といい、床といい、机といい、テーブルといい、まるで映画『三丁目の夕日』のセットのよう。長く値上げせず変色している壁の短冊メニューも、中華そば・焼きそば・カレー各500円、ラムネ200円と、泣かせる品揃えだ。
僕のお気に入りは焼きそば。店でも人気ナンバーワンだという。具は細かく刻んだキャベツ・もやし・玉ネギ・ベーコンとシンプルだが、昔ながらのしみじみ美味しい焼きそばだ。その他にも、焼魚・カツ丼・野菜炒め・ニラレバ炒め・煮込み・など鉄壁のラインナップ。厚焼玉子も絶品だ。
酒はビール大瓶(キリン・アサヒ)・ワンカップ・缶チューハイもあり、「お酒類は、お一人様三本迄です」。いわゆる懐かしい「三杯屋」スタイルだ。今は無き浅草「松風」を思い出す。
「芳野屋」創業者の上村(かみむら)吉太郎氏は、戦前は本屋やブロマイド屋(浅草らしい!)をなさっていた。そして、妻の芳江さんは「上村美容室」をなさっていた(現在の六区通りの「捕鯨舩」の向かい側)。「近代美容の母」・マリールイズ(明治記念館「マリールイズ美容室」創始者)の弟子だったというからスゴイ。
しかし、東京大空襲で浅草のそういった店は消失してしまう。戦後、観音様(浅草寺のことを地元の方はそう呼ぶ)から焼失した商店に替地(かえち・代替地)が割り当てられた。
かくして1943年に「芳野屋」が誕生する。そして何と、吉太郎氏は物資が不足していた時代だったということもあり、釘を1本も使わずに、木材を組み合わせてバラックの店を自力で建ててしまった。それが今の店なのだ。それから77年間、東日本大震災にも耐えて立ち続けているのである。しかも店名は、美容院を再開した妻の芳江さんから一字もらって「芳野屋」となった。
吉太郎氏は、戦後の混乱期に町会長として尽力した。「うますぎて申し訳ないス!」の名コピーで有名な「ヨシカミ」の仲人も務めたし、前出の「水口食堂」創業時からの関係もあり、現在の女将さんも結婚式の時に「上村美容院」にお世話になったという。
やがて息子の猛さん(現主人)が「芳野屋」を手伝い始める。國學院大學文学部出身で、僕の大先輩だ。金田一京助先生の講義を受けたといい、うらやましい。かつては国際劇場(1982年閉館)から「花やしき」前を通り浅草寺に抜ける道は、人があふれていたという。
1968年、とも子さん(現女将)が嫁いでくる。そして、美容師として「上村美容室」を手伝う。浅草「産業会館」にあった結婚式場での着付けなども担当していたし、浅草のバーやクラブのホステスさんや「ロック座」の踊り子さんも髪のセットに訪れ、大繁盛だったという。
その後、20年ほど前に吉太郎氏も芳江さんも引退し、猛さん・とも子さん夫婦で「芳野屋」を守ることとなる。しかし、7年前に猛さんが体を壊し、店の奥の小上がりに座ったままの接客に。土日中心(競馬開催日)の営業に変更することになったが、長女の若菜さん、時々次女の玉青さんが手伝いに来てお母さんを助けている。
夏場だけは平日も営業する。名物のかき氷に行列ができるのだ。それは、シロップもあずきも自家製だからだ。地球の裏側のボリビアからも買いに来た人がいたという(ところが何たる不運か、その前日にかき氷の販売は終わってしまっていたのだった……!)
店に集まる常連さんたちは、競馬のためだけに集まっているのではない。お母さんは皆のアイドルなのだ。帰り際に「お母さん、また来るね」という常連客と、お母さんの「もう店がないかもしれないよ」「もう(私が)いないかもしれないよ」というシュールなやり取りも店の名物だ。
僕の取材の時も「いつ無くなるかわからない店だから」と固辞されていたのを、何度も通って、娘さんと常連さんを味方に付けて、なんとか許していただいた。お母さん、わがままを言ってごめんなさい。でもいい話がたくさん聞けて良かった。やはり「芳野屋」は、浅草の歴史の1ページに刻まれるべき大切な店でした。
お母さんも今年で83歳。無理はなさらずに、でも1年でも長く仕事を続けてくださいね。喜寿を迎えた唯一無二の手造り店舗の食堂とともに。
最後に、この辺りの歴史について少し触れておこう。
1884(明治17)~1966(昭和40)年の間、浅草寺周辺は「浅草公園」として6区に区画されていた。一区「浅草寺本堂周辺」、二区「仲見世」、三区「伝法院周辺」、四区「瓢箪池周辺」、五区「奥山地区」、六区「歓楽街・興行街」という具合だ。
1951年に埋め立てられるまで、今の「WINS(ウインズ)」(場外馬券場)と「まるごとにっぽん」の場所には「瓢箪池」(ひょうたんいけ)があった。その池畔にあった茶屋が「花本」の前身だ。華族専用の高級店だったという。東京大空襲でも焼けなかったため、貴重な写真や資料が残る。信じられないような歴史を秘めた店なので、いつかぜひ取材をさせていただきたいと思っている。
その「花本」があるのが1958年に生まれた飲食店街「初音小路」だ。「ウインズ」の目の前にあり、競馬ファン御用達。「ホッピー通り」は観光地化して値段も観光料金になってしまったが、一本奥に入った「初音小路」は庶民の味方だ。
東西と南北の十字路になっていて、藤棚が名物なのだが、東西藤棚は2019年のドーミーイン「御宿 野乃」の建設に伴い撤去されてしまった。残念この上ない! この藤棚を植えて育ててきたのが「松よし」だ。店の前の露天で飲ませる風景が名物となっている。
競馬をする人もしない人も、ぜひ「芳野屋」や「花本」で日常生活を忘れて、命の洗濯となる昼の時間を過ごしてみてください。
文:神林桂一 写真:萬田康文