米をつくるということ。
続・棚田の用心棒。

続・棚田の用心棒。

真冬の田んぼに誰かいたら、そりゃ驚く。休みの日の学校に人影を見つけるようなものだもんね。果たして、その正体とは。ちなみに、セルジオ・コルブッチ監督の「続・荒野の用心棒」は、セルジオ・レオーネ監督の「荒野の用心棒」の続編ではない。続と付けられているのになぁ。自由だ!

田んぼの怪物、モンスターだ!

田んぼの中の怪しい人物は奇々怪々な動きを繰り返している。写真家の阪本勇さんが「まさか大治朗くんと違いますか、あそこはiPhoneをなくしたあたりでしょう?」と冗談めかしていった。
大治朗くんとは、dancyu web編集部の若手編集者、河野大治朗くんのことだ。彼は田植えのとき、田んぼにiPhoneを落としたのだ。だが、ぼくは(阪本さんの冗談を)ぜんぜん笑えない。もしかすると(正体不明の)あいつは刃物でも隠し持っているかもしれないではないか。あの暴力的な動きは尋常ではない。曇天の空に向けて腕を振りまわし、怒りに燃えているようだ。後ろ向きで頭からフードをかぶり、正体を見せないところがいっそう怪しい。田んぼの怪物、モンスターだ!

藤原さん

しかし阪本さんは勇敢だった。常にシャッターチャンスを狙う写真家の本能がそうさせるのか、彼は率先してモンスターへ向かって小走りに近寄り、いち早くその正体を見極めようとした。まるで戦場カメラマンのごとき勇気である。阪本さんが「あっ!」と大声を上げた。
「ほんとに大治朗や、何で?ここで何してるん?ほんとにiPhone探しにきたん?」

田んぼ

まさか、そんなことはありえんッ!と、ぼくは急いでモンスターの正面にまわり込んだ。その顔を目にした途端、全身の力が抜けて思わず畦道にしゃがみ込んでしまった。それはたしかに、河野大治朗くんだったのだ。
「田んぼに入ったら、泥にはまって足が抜けないんですよ。助けてくださいよ~」と、情けない声を出している。あの不気味に見えた体の動きは、田んぼの泥から足を抜けずに、バタバタともがいているだけのことだった。バカ野郎!

田んぼ

恐怖と寒さから肩がかちかちに凝ってしまった

「あれ、どうしたの大治朗くん、スマホ探しに来たの?」と、江部さんがニヤニヤしながら近寄ってきた。どこかで見たこの薄笑い。そうだ、今朝、赤羽の居酒屋で見た表情だ。そこでやっと真相がわかった。またもぼくと阪本さんは、編集部に一杯食わされたというわけ。すべて仕組まれたことだったのだ。
大治朗くんは江部編集長の指令を受けて、東京からこの棚田まで一人旅でやってきた。そしてぼくらを驚かせるべく、先回りして田んぼに入ってみんなを待っていたのだ。たしかにヘンだったよねえ。ぼくと阪本さんだけ田んぼに先に行かされて、みんなはわざと離れていたからねえ。

雪

しかもあろうことか大治朗くんは、田植えのときに紛失したiPhoneが、もしや泥の中から見つかるかもしれないと、長靴の足で田んぼに入ったらしい。もちろん見つかるはずはない。万が一出てきても、何ヶ月も泥の中に埋まっていては、使い物になるばすはないだろう!なんというスマホへの執着心なんだ。呆れるばかりだ。
泥から救出された大治朗くんが「みんな来るのが遅いですよ。20分も冷たい田んぼの中にいて足が凍傷を起こしそう」と文句を垂れる。はい、どうもお疲れさんでした。

山

ぼくは大笑いする余裕もなく、恐怖と寒さから肩がかちかちに凝ってしまった。足も重い。せっかくの「カプチーノ」体験を前に、ありったけの体力を使い果たした感じだ。と、そこへ江部さんの救いのひと言が。
「じゃあ、ひとまず温泉に行きますか」。そうだよね。人をさんざん驚かせて楽しんだのだから、それくらいの罪滅ぼしは当たり前だよね。
というわけで「まつだい芝峠温泉雲海」に向かう。ここは夏の棚田草刈りのときに一度寄ったことがあった。本日もここでまず湯を楽しみ、体を清めてから、夜のお楽しみになだれ込もうという算段である。

スキー場らしき場所

この温泉の最大の楽しみは、露天風呂からの展望である。なにしろ眺望が素晴らしい。天候によっては露天から眼下に雲が見えるという。雲海という名もそこからきている。さて、今回はどんな冬景色を楽しめるか?
まずは室内の広い湯船に体を沈めて、ゆっくりと冷えをとる。今日一日の各駅停車の旅の疲労感がじんわりお湯に溶けていく。それから露天へ出てみた。さすがに寒い!すぐに湯に飛び込んだ。ふーっと深いため息をつき気持ちが落ちつくと、ガラス張りのフェンスに腕をもたせかけて、じっくりと眺望を楽しむ。
眼下には棚田が広がり、遠くに山々が連なっている。夏の日に眺めた鮮やかな緑色の風景と違って、いまは色あせた灰色の、どこかもの悲しい雰囲気が漂っている。白銀の雪景色の棚田、冠雪の山々を期待したのになあ。ついさっき見た棚田も、まるで春間近という感じだった。田んぼの透き通った水、畦道の溶けかかった雪。春の到来を予感させる風情たっぷりの景色だったが、厳寒の1月の風景ではない。ちょっとおかしいよね。米づくりはだいじょうぶなんだろうか。そうだ、米づくりの名人、小林昇二さんに聞いてみよう。
湯から上がったぼくらは、その足で「カプチーノ」を目指して出発した。

カプチーノ

――つづく。

文:藤原智美 写真:阪本勇

藤原 智美

藤原 智美 (作家)

1955年、福岡県福岡市生まれ。1990年に小説家としてデビュー。1992年に『運転士』で第107回芥川龍之介賞を受賞。小説の傍ら、ドキュメンタリー作品を手がけ、1997年に上梓した『「家をつくる」ということ』がベストセラーになる。主な著作に『暴走老人!』(文春文庫)、『文は一行目から書かなくていい』(小学館文庫)、『あなたがスマホを見ているときスマホもあなたを見ている』(プレジデント社)、『この先をどう生きるか』(文藝春秋)などがある。2019年12月5日に『つながらない勇気』(文春文庫)が発売となる。1998年には瀬々敬久監督で『恋する犯罪』が哀川翔・西島秀俊主演で『冷血の罠』として映画化されている。