1週間、いまの仕事を離れて、異業種に携わる。なんてことは、なかなかない。貴重な体験をやってみよう。物書きから酒造り。取材という名のもとで、酒蔵を訪ねて蔵人の仕事は垣間見たことはあるけれど、実際にやってみると何を感じるのだろうか。いざ、東京から佐渡へ。
蔵人になってみませんか、と編集長のエベさんは言った。
「酒造りの“体験”じゃないんです。1日だけ蔵を見学して手伝うとかじゃなく、1週間ずっと酒造りをする。それはもう蔵人って言ってもいいと思うんです」
いやいや1週間ぽっきりではおこがましくて、なんてことはエベさんだってきっと百も承知だ。
けど目覚ましを5時かなんかにセットして、米を洗ったり運んだりの作業をこなし、夕方「今日も汗かいたなぁ」と腰をグルグル回したりする1日を7回くらい繰り返すことは、1日体験よりやっぱり少し蔵人には近づけるかもしれない。もしかしたら山のキノコを探すように、見えなかった色や形が、ある瞬間からあちこちで見えるようになるかもしれない。だったらそのキノコ、私は見てみたい!
本当はここ何年も、いつの日か1ヶ月くらい酒蔵で研修したいと考えていたのだ。1ヶ月なら、タンク1本の最初から終わりまで関われる。研修先も密かに決めていた。けれど今年こそ、今年こそと思いながら、本業(取材して文章を書く仕事です)を1ヶ月離れる決心が、どうしてもできなかった。
エベさんの言う蔵は、新潟県の佐渡島にある。
もともとは日本酒「真野鶴」を造る尾畑酒造が、若い蔵人に経験値を積ませるため、廃校になった小学校を再利用して構えた蔵。冬の仕込み時期以外の5~8月に研修できるよう、太陽光発電を使って仕込室を冷房で冷やし、冬の環境を作っている。
4ヶ月間、毎月1タンク仕込んで計4タンク。本番の仕込み時期は大人数での分業制になるが、この規模ならばすべての工程に関われるというわけだ。
尾畑酒造ではその日本酒を「学校蔵」という銘柄で販売しているが、一方で私たちのような素人にも門戸を開いてくれている。蔵の若手と一緒になって、酒を造るのだ。
dancyu webでは、2018年の夏に初めてこのプロジェクト「d酒」を発足。今年は2年連続2回目、エベさんは蔵人2年生だ。ほかにd酒顧問として、日本酒ジャーナリストの松崎晴雄さんと文筆家の藤田千恵子さん、「日和」店主、望月清登さんも2年生。編集部の沼由美子さん、写真家の大森克己さんが1年生として初参加だという。
1週間ならばできるかもしれない。8月2日から8日まで、出版業界ではお盆前の前倒し進行とばっちり重なるという、連載の担当編集者にははなはだ迷惑なタイミングではあっても、頭を下げればできないことはない。
手帳を広げ、私は2から8まで貫く長い線をビヨーンと引き、「佐渡島」と書いた。
8月1日木曜夜、まずは新潟駅へ。d酒チームはこの日のうちに佐渡島入りしていたが、私は別の仕事で間に合わず、新潟市内で1泊、翌朝始発のフェリーで向かうことになっていた。
最後の取材を終え、東京駅のコインロッカーに仕込んでおいたスーツケースを引き出してMAXとき号に滑り込むと、ちょうど夕暮れ時だった。ブラッドオレンジ色の太陽を追い越して、ピンクグレープフルーツ色の空の下を走る時速240キロ。珈琲も買えなかった私は車内販売をせつなく待ちながら(じつは上越新幹線車内での珈琲販売はない、と後に知る)、蔵人としての禁忌について復習する。
これまで多少なりとも酒蔵を取材して、蔵人が酒造りの間、決して口にしないものは了解済みだ。納豆、ヨーグルト、漬物、何より柑橘。これらが持つさまざまな菌が、日本酒の麹菌や酵母に影響を与えかねないから。蔵人になってから蜜柑を食べたことがない、と言う杜氏もいた。
ただ、酒蔵によって禁忌の捉え方はまちまちで、まったく規制しないところもある。学校蔵の場合はわからないが、とにかく数日前から、私は毎朝の納豆もヨーグルトも断ち、夜はレモンサワーも避けたし、居酒屋では〆の香物も「私は蔵人」と言い聞かせて我慢した。ま、そうしたかったのだ。
新潟のこの夜も用心深くそれらを回避。蔵人の目になって競合を知るべく、居酒屋でひとり、新潟の地酒をリサーチするのだった。
翌朝6時、佐渡汽船のフェリーに目を丸くする私がいた。
ビルのように大きいその中は、まるで小さな村だ。ラーメンなど温かいものが食べられるスナックコーナー、売店、ゲームセンター、ステージまで設えたレジャー室。ここでコンサートも行われるという。
楽しい、楽しすぎる、とパトロール。すると売店の前でふと、海苔の匂いが漂ってきた。クンクンと出どころを辿った終点は、「爆弾おにぎり」という名の黒い球体。飛魚味噌、鮭、たらこ。気づいたらたらこを1個厳選していた。
まだ温かいのは、港で作りたてだから、と売店員が教えてくれる。ごはん粒がほどけるような「おむすび」でなく、ギュッと握られ、むっちりとした「おにぎり」。少々洗練味には欠けても、私はこっちのタイプが好きで、リスのように両頬をごはんで膨らませ、ごはんの旨味を存分に堪能する派である。
かぶりつくと、リスのくせに「うま!」と小さく叫んでしまった。とんでもなくおいしいごはん。裏ラベルには、佐渡島産ササニシキと書いてある。ササニシキか。その時の納得は、品種のほうだ。
大きな影が見えてずいぶん経つのに、その島は、近づきそうでなかなか近づかない。前日に到着したチームは、もう仕込室に入っただろうか?しかしフェリーは歩くようにゆっくりと進み、そわそわしつつも、そのスピード感はなんだか優しい。
両津港に着くと、エベさんが迎えに来てくれていた。学校蔵は、港から車で45分かかるという。
「え、遠い!」
竹富島くらいの大きさ感でいたら、じつは東京都23区より広いのだそうだ。この2年、何度も佐渡と東京を往復しているエベさんは、もう佐渡島は地図を見なくても道がわかるし、お刺身のおいしい呑み屋も、夢見心地になるヘッドマッサージの店も知っている。
島には思いがけず、田園風景が広がっていた。
「そういえば、おにぎりのごはんがすごくおいしかったんですよね、ササニシキ。佐渡で作っているんですね」
ぼんやりと呟くと、運転中のエベさんは「佐渡のお米はおいしいんです」と答えた。日本の朱鷺が絶滅した背景の一つに、農薬の使用などによる環境破壊があるという。農薬によって、タニシをはじめ、朱鷺の餌となる虫などが激減し、生態系が壊れてしまったのだ。
朱鷺の棲家であった佐渡島は、できるだけ農薬を使わない方向へ、島全体で舵を切った。無農薬か、または除草剤などを使う場合でも使用量を控える減農薬が基本の農業へ。そうして中国から提供されたヒナの繁殖、野生化に成功し、朱鷺は佐渡島に定着した。
朱鷺が生きていける農法は、結果的に人間が食べるお米もおいしくしてくれた、ということだ。
「運が良ければ朱鷺に会えるかもしれないですよ。僕はもう見たんですけど」
優しいお言葉の陰で、しまった、と思っていた。
蔵人という言葉に浮かれ過ぎて、私は佐渡島のことを知ろうとさえしていなかった。その土地の米や水、気候風土なくして日本酒は生まれない。そんなことわかりきっていたはずだったのに。
これじゃ蔵人失格だ。まだ学校蔵に着いてもいないうちから落ち込むという、蔵人修業はへっぽこなテンションで始まった。
――つづく。
文:井川直子 写真:大森克己