2018年、荒木町に新風を吹き込んだ「荒木町 きんつぎ」。料理、お酒、サービス、マネージメントと全方位を俯瞰できる「居酒屋マン」を目指す店主の佐藤正規さんが尊敬するのは、西大井で42年の「すみ焼 とりいち」。赤提灯(あかちょうちん)の佇まいにあなどるなかれ。席に着けば、本鮪に鯨、エスニックな風も吹く、想定外のオンパレードだ。
昭和/すみ焼 とりいち
僕/佐藤正規“荒木町 きんつぎ”
「荒木町 きんつぎ」店主の佐藤正規さんが、まだ修業先の日本酒居酒屋「件」に入りたての、2015年頃のことだ。「件」のOBに連れて行ってもらったのが「すみ焼 とりいち」。
西大井というマイナーな駅にある、一見、何の変哲もない赤提灯。だが吞み始めると、次々と予想の上をいく展開が待っていた。高級鮨なみに質の高い鮪や鯨。かと思えば「おからのグリーンカレー煮」「酢だこと新玉ねぎのエスニック和え」なる東南アジアからの風も吹くし、品書きにはハツやシロの「もつ焼」に「もつ煮込」といった昭和の定番もちゃんとある。
「お母さんの代から続く落ち着く味と息子さんの新しい料理、古い常連さんと若いお客さん、それらが共存するバランス感。ここは単なる大衆酒場じゃないぞ、と思いました」
お母さんは阿部幸枝(ゆきえ)さん、息子さんは、長男の一将(かずまさ)さんという。そもそも「とりいち」は昭和53年、幸枝さんと夫の圭一さんの夫婦で開店した炭焼き店だ。当時、圭一さんは34歳。会社勤めで、幸枝さんの実家がある足立区竹の塚に暮らしていたのに、「どうしても自分の出身小学校に子どもを通わせたい」と圭一さんの地元、この西大井に戻って来たのだった。
「脱サラですよ。二人とも飲食業なんてまったくの素人ですけど、夫は言い出したらきかないもんだからしょうがない。開店前に知人の店で少し、見習いさせてもらって……夫でなく私がね。そこからなんとか」
屠場と食肉市場のある芝浦から取り寄せる新鮮なモツを、夫婦二人で串に刺し、焼いて煮込んで。かつてはコの字カウンターで、幸枝さん手作りのお惣菜も大皿に盛られ、からりと並べられていた。「料理は嫌いじゃないので」と言う彼女の味は、足立区で酒屋を商う江戸っ子一家に育まれた、東京の味。
気っぷのいい幸枝さんは「お母さん」と呼ばれ、お客と家族のように付き合った。創業時、一将さんは5歳。店をちょろちょろしてはお客に可愛がられ、おもちゃや本を買ってもらったりしていたそうだ。西大井にいくつかあった商店街が、まだどこも元気な時代。町には大人も子どもも溢れていた。
圭一さんが亡くなったのは10年前、2010年のことである。
「私一人で串打ちは無理ですから、お店は閉めようかなと思っていました」
代々なんてたいそうなもんじゃないんだから、店は継いでも継がなくてもいい。自分のやりたいことをやればいい。そう息子には言っていたけれど、一将さんは実家へ戻ってきた。
「こんなおいしい料理があるのに、店がなくなるのはもったいないなぁと思ったんです」
一将さんもまたユニークな経験を重ねた人だ。大学時代、タイの農家にホームステイし、農村での暮らしにすっかり魅せられてしまった。「タイのお父さん」と呼べる人もできて、アルバイトをしては、ラオスとの国境に近いこの村に1ヶ月ほど滞在する。それを20代の前半から30代後半になるまで毎年のように続けた。
「僕は都会の人間、両親も東京だから、農村暮らしの力強さに憧れたんです。土間で寝て、鶏の声で起き、夕食にはその鶏をつぶして食べる。滞在中は観光するでもなく、ただそういう生活をしていました」
日本ではよその居酒屋に務め、店長を任されていた、その矢先の父の逝去であった。店を手伝うと決めた息子に、幸枝さんは大喜びするわけでも反対するわけでもなく、ただ「好きにすれば」と言った。
で、一将さんは好きにするのだが、しかしお客である佐藤さんの目には「決して好き勝手にはしない」姿勢がよく伝わった。
「たとえば『きんつぎ』は僕が創業者だから、自分の考えでどんどん進んでいけます。でも家業を継ぐということは、つないでいくということでもあるので、自分のやりたいこととのバランスがすごく難しいと思う」
一将さんに訊ねると、「うちは“2階建て”だと思ってます」と答えた。
「42年もの間、この町で店を続けてきた両親の土台。そういう1階がしっかりあるからこそ、2階建てでいられるんですよ」
――とりいちときんつぎ 2/2につづく
文:井川直子 写真:キッチンミノル