はらぺこ本屋の新井
パピコのフタはとびきり甘い

パピコのフタはとびきり甘い

書店員の新井さん、今回は広島で牡蠣尽くしの食い倒れ。夢うつつな自身の行動が、青春漫画の美少女とオーバーラップしました。

旅先の広島で、ホテルのツインに友人と宿泊したときのことだ。生牡蠣、焼き牡蠣、牡蠣フライ。地ビール片手に牡蠣という牡蠣を食べ尽くし、部屋に戻って先にシャワーを浴びた。腹がセイウチのように膨れている。韓国土産のシートパックを顔に貼ったところまでは記憶にあるが、そのままベッドで寝落ちしてしまったようである。長風呂から上がった友人は、仰向けで口を開けて眠るスケキヨに、眠るならパックを剥がしなさい、と声を掛けたらしい。私に記憶はないのだが。パックを朝まで貼り続ければ、皮膚が呼吸困難になってしまう。寝惚けたまま、素直に剥がしたまではよかった。だが、何を思ったか、そのパックを「はい、あげる」と友人に手渡したそうな。

嫌がられるかも、などとは夢にも思わない天真爛漫さ。自分にとってのゴミを、喜んで受け取る人がこの世にいると思える、天然のアイドル性。ほぼ無意識で、当たり前のように取った行動が『僕の心のヤバイやつ』の「山田杏奈」とシンクロする。

中学2年生の彼女は、お菓子が大好きで、雑誌モデルの仕事もこなす、学校一の美少女だ。食べ終えたポテチの袋を、ゴミ箱に捨てず「はい、あげる」と渡す相手が、クラスメイトの「ヤバいやつ」こと、市川京太郎である。山田と市川には接点などなさそうだが、図書室に棲息する市川は、そこで隠れてお菓子を食べる山田と、徐々に仲良く(?)なっていく。陰キャではあるが無自覚で善人な市川は、手渡されるゴミを素直に受け取り、そのやり取りが、ふたりの距離を縮めていった。

ある日、《まさか この腐った人生において 女子とパピコをシェアする事態が起こるとは》思えなかった市川に、山田からパピコの片割れがもたらされる。もちろん相手は山田だから、パキンと割った片割れではなく、その片割れから外したフタなのであるが、私は思うのだ。剥がしたパックやパピコのフタを手渡すのは、相手に好意を抱き、心を許している証拠である。それが許されるだろうと確信できる間柄は、恋愛でも友情でも、得難いものである。しかもこのエピソード、素敵などんでん返しがある。見直したぞ、市川。それが正解だ。

今回の一冊 『僕の心のヤバイやつ』桜井のりお(秋田書店)
学園カースト頂点の美少女・山田杏奈の殺害を妄想してはほくそ笑む、中二病真っ最中の陰気な中学生・市川京太郎。だが山田の意外な一面を知ってから、不本意にも京太郎の心はかき乱されていき……。京太郎の青春が今、かなり静かに動き出す! 極甘青春ラブコメディ漫画。

文:新井見枝香 イラスト:そで山かほ子

新井 見枝香

新井 見枝香 (書店員・エッセイスト)

1980年、東京生まれ下町(根岸)育ち。アルバイト時代を経て書店員となり(その前はアイスクリーム屋さんだった)、現在は東京・日比谷の「HMV&BOOKS HIBIYA COTTAGE」で本を売る。独自に設立した文学賞「新井賞」も今年で13回目。著書に『この世界は思ってたほどうまくいかないみたいだ』(秀和システム)、『本屋の新井』(講談社)など。