知人から米が送られてきた。山形の「つや姫」だ。甘みが強く、見た目もつやつやと美しい品種である。炊き立てなら、それだけで丼一杯いけるくらいの米好きを自負する私には、最高のプレゼントだ。しかし、ひとり暮らしに30キロは多すぎる。三和土の上の米袋は持ち上げることもできないし、そもそも狭小アパートのワンルームには、収納できる場所もないのだった。
当分は麺類を控え、通勤途中に朝食の塩むすびを買うのも止めだ。セブンイレブンの塩むすびは、ふんわりと握った中央にぽっかりと空洞がある。美味しさの秘密なのか、それとも具を入れるはずだったポケットなのか。真相はわからないが、バランス良く形作った三角が美しい。しかし、自分で握ろうとすると、ちっとも言うことを聞かないのだ。角をとがらせようとすれば腹の辺りが崩れ、慌てて押さえれば角が割れる。いくら美味い米でも、三角でなければ、気持ちが沈んだ。
そんなある日、自宅で晩酌をしながら捲っていた『dancyu2月号』に、塩むすびのコペルニクス的発想ともいえる記事を見つけた。〈古神道式おむすび〉という、手の中でブチブチと握りつぶし、もはや半搗き状になったおむずびの角を尖らせた美しき三角。さっそく翌朝、米に恨みでもあるかのように、ぎゅーとにぎりつぶしてみれば、あら簡単。ずいぶん小さくはなるが、粘土のように自由自在だ。三角どころか、五角でも八角でも作れそうだった。
乗代雄介さんの小説『旅する練習』では、コロナの影響で小学校が休校になった姪と小説家の叔父が、鹿島アントラーズの地まで歩いて旅をする。サッカー命の亜美は、オムライスが大好物で、コンビニのおにぎりも「オムライス」一択だ。だがその理由は、米と海苔が分離したタイプだと、包装を上手く外せないからでもある。わかる。私もうまく剥がせたためしがない。海苔は両側に引き千切られるものだし、ともすれば米も分離し、具がこぼれ落ちるものだと、端からあきらめていた。米好きを気取ってはいるが、塩むすびばかり買うのは、海苔を巻かないで済むからかもしれない。
そうやって、できないまま大人になってしまったことが私にはたくさんある。
ボタンを丈夫に付けること。きれいに蝶々結びをすること。握り潰さずに米を三角に結ぶこと。
しかし旅の途中で、亜美は海苔を巻くおむすびに手を伸ばす。リフティングを500回できるように、真言宗を唱えてまでチャレンジし続ける。
もし彼女がサッカー選手にならなくても、いずれ包装が改良されて、誰でも簡単に海苔が巻けるようになっても、今できるようになろうとしたことの価値が変わりはしない。何かを試されるような物語の結末を知ってもなお、心からそう思うのだ。
私は明日も、理想の塩むすびを握る。
文:新井見枝香 イラスト:そで山かほ子