石田ゆうすけさんの青春18きっぷでミラクルミステリーツアー。
沼津の「ケルン」に誰も知らない昭和があった。

沼津の「ケルン」に誰も知らない昭和があった。

昭和10年の沼津の風景を思い浮かべても、想像できない。昭和38年だったら、どうか。やっぱり、わからない。とはいえ、バブルの沼津も、平成の沼津も、おっさん3人にとっても、遠い昔のように思えてくる。昭和の初めからずっと、沼津で喫茶店を営む「ケルン」。奇跡のような出逢いを終えて、沼津を後にします。

暦の上ではディセンバー。

高齢のママさんがアニメ『ラブライブ!』のファンたちのことを「ラブライバー」と呼んだときは、なんだかこそばゆくなったが、その後、登場人物のことを「ヨシコさん」と言ったときは微笑ましい気持ちになった。『サザエさん』じゃないんだから。
そんなママさんはコーヒーポットではなく、片手鍋でコーヒーを淹れ始めた。

ママさん
お鍋でも、注いでいるお湯がちゃんと細い糸になっています。
コーヒー
「おいしくなーれ」……ではなく、「ボロだから撮らないで」と手で隠しています。すみません、載せちゃいました。おいしそうなので。
コーヒー
年月を経ると、空間も人も絵になりますね。ひとつひとつの所作に見とれてしまいます。
コーヒー
コーヒー350円。思ったとおり丸みのある優しい味わい。
石田さん
石油ストーブで温められた空気のなかで飲むコーヒー1杯の幸せ。沁みます。

本棚には古そうな雑誌が並んでいた。1冊手に取って見ると、『週刊現代』がなんと40円。
「……お店、いつからあるんですか?」
ママさんはニコニコ、少し含んだような笑い方で束の間僕を見た後、言った。

週刊現代
この表紙の人は野田和子さんだそうです。……誰ですか?

「1935年からです」
「えっ、戦前ですか!?」
やっぱりそうなんだ。ほんとに戦前だったんだ。そっか。レトロ喫茶によくある、ムード満点のあの凝った様式は、戦後から増えたものなのかもしれない。戦前にできたこの店が、あの様式にのっとっていないのは当然なのだ。たぶん。

マッチ
昭和20年代につくったというマッチ。フリーハンドの文字が温かいなあ。

また逢う日まで。

「……あの、失礼ですけど、ママさんのお年訊いてもいいですか?」
ママさんはふふふ、とやっぱり含んだように笑ってから、言った。
「82歳です。このお店もあと1年やれるかどうか」
僕は言葉に詰まった。こんな奇跡みたいな空間がなくなるなんて……。
同時に、自分たちが偶然この店を見つけて入ったこともまた奇跡のように思えた。来年だったら、あるいはたどりつけていなかったかもしれないのだ。
しかし、さっきの「桃屋」といい、ここといい、今日の俺たちの“引き”は神がかっているな。そんなことを考えていたら、痛風エベがいつも眠そうな目をクワッと見開き、さっき僕が見ていた雑誌を手に取って言った。
「日付見てください」
12月19日号とある。今日は……12月19日だ!
僕らは互いに上気した顔を見合わせ、「やっぱり」と頷き合った。

週刊現代
「昭和38年12月19日発行」とあります。“偶然の一致感”がますます強まって、ヒデキ感激。

中を開くと、 トップ記事のタイトルが「紅白歌合戦にあがるNHK横暴の声」だった。出場歌手の選定基準があいまいだの、潤沢な予算を湯水のように使って品がないだのと叩きまくっている。批判内容がいまと変わらないではないか。記事には「今年で14回目の紅白」とあるが、そんな頃から……。

トイレ
トイレの紙タオル。よく見るとキッチンペーパー。鏡の横の標語にも惹かれます。

コーヒーを飲み終えると、ママさんはお茶を入れてくれ、さらに蜜柑もくれた。
本当に温泉につかったように、僕らはゆるみきっていた。
「はあ、もうここで旅を終えてもええんちゃう……」と僕。
「ほんまですねえ……」とガリガリ君。

店内
ここの空気があまりに気持ち良すぎて、旅のことが半分どうでもよくなっています。

痛風エベも眠そうな目で恍惚としていたが、編集者の本分は忘れていなかったようだ。時計をちらと見た後、「わ、もう1時半だ」と小さく叫んだ。
沼津に着いたのは10時過ぎだったから、最初に降りたこの町に3時間以上もいたことになる。旅はまだ序盤も序盤なのに、何をやっとるんだ俺らは。時間の配分が悪すぎるだろ。

重い腰を上げ、会計をしてもらい、ママさんにお礼を言って店を出た。
駅に向かって歩いてると、『ラブライブ!』のマンホールが次々に現れた。どうやら主要な登場人物がひとりひとり描かれているらしい。
「……え?」
僕ら3人は足をとめ、固まった。

マンホール
ママさん、すみません……。

「……急ぎましょう。今度の電車を逃すと次はだいぶ後です」とエベ。
僕らは走って駅に向かい、ホームに来ていた列車に慌ただしく飛び乗ったのだった。

階段
今日中に大阪まで行けるんでしょうか?

――つづく。

店舗情報店舗情報

ケルン
  • 【住所】静岡県沼津市大手町4-5-14
  • 【電話番号】055-962-3439
  • 【営業時間】8:30~16:00
  • 【定休日】日曜
  • 【アクセス】JR「沼津駅」より6分

文:石田ゆうすけ 写真:阪本勇

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石田 ゆうすけ(旅行作家&エッセイスト)

赤ちゃんパンダが2年に一度生まれている南紀白浜出身。羊肉とワインと鰯とあんみつと麺全般が好き。著書の自転車世界一周紀行『行かずに死ねるか!』(幻冬舎文庫)は国内外で25万部超え。ほかに世界の食べ物エッセイ『洗面器でヤギごはん』(幻冬舎文庫)など。