いちばん古いおにぎりの記憶はいつだろう。お母さんがにぎったもの、先生がにぎったもの、初めての恋人が一生懸命にぎってくれたもの。高級な味わいではなかったけど、美味しかったなぁ。気づけば、いつの間にか自分がおにぎりをにぎってあげる側。きっと、あの日食べた味わいが今日にぎるおにぎりの味をつくっている。
赤木楠平(あかきなんぺい)さんとは、今はもう亡くなってしまった編集者の林文浩さんを通じて知り合った。
林さんの事務所で写真を見てもらった後に「ちょうど今、お前みたいにアホなやつが横で展示やってるぞ」と言われ、隣に併設されていたギャラリーに寄った。
ギャラリーに入ると男性がいて、ニコニコの笑顔で「飲む?」といって缶ビールを渡してくれたのが楠平さんだった。
僕たちはまだ挨拶も自己紹介もしていないのにビールを開け、乾杯した。
その自然な振る舞いや満面の笑顔にやられ、僕は一瞬で楠平さんを好きになった。
話してみると同じ大学だったことがわかった。
歳は離れているし、僕は二浪して入学し、すぐに中退しているので接点はなかったが、学部も学科も同じだった。
楠平さんは幼い頃、父親の仕事の都合でサウジアラビアやシンガポールなど、海外で多くの時間を過ごした。
海外生活が長かったせいもあるのか、少し詰まりながら日本語を話していると思ったら、かかってきた電話に流暢な英語で話したりもする。
高校に入って父親はフィリピンのマニラへ行き、母親と妹は日本に戻ったが、シンガポール生活が気に入っていた楠平さんはひとりで残り、高校三年間をシンガポールで過ごした。
当時のガールフレンドが日本に帰るのをきっかけに自分も日本へ戻ることにし、日本大学芸術学部写真学科を帰国子女枠で受験した。
試験当日、教室に入ると自分ひとりしかいなかったので、「名前さえ書けば受かるな」と思って丁寧に名前を書いて合格した。
大学卒業後は、イギリスのロンドンへ渡った。
スケボーやアルバイト、写真の仕事をして日々を過ごし、8年が過ぎたくらいのとき、銀行でパスポートの期限が切れているのを指摘され、それを期に日本へ戻った。
僕が楠平さんと会ったのはその頃だったと思う。
楠平さんにとって39歳は激動の一年になった。結婚し、子供が生まれ、世田谷の瀬田交差点近くに「BY」というカフェを出した。
奥さんの清恵さんは大学の同級生で、やはり楠平さんの笑顔に魅かれたらしい。
大学時代、楠平さんら同級生は何人かでタイに旅行へ行った。
朝、泊まっていた海辺のコテージから清恵さんが出ると、楠平さんはもう海に入っていた。
朝日を背景にした楠平さんの笑顔がとても爽やかで、清恵さんは恋に落ちた。
後になってわかったのだけれど、まさにそのとき、楠平さんは海に浸かってオシッコをしている最中だったらしい。
清恵さんが出産の日、楠平さんは血を見るのが苦手で分娩室におれず、清恵さんの病室のベッドで待っていた。
子供が生まれたことを伝えようと、清恵さんのお母さんが病室に行くと、楠平さんは運ばれてきていた入院食を食べていた。
その話を聞いて、なんて楠平さんらしいエピソードなんだと可笑しくなった。
陽が落ちてきたころ「BY」の店前にあるソファで家族三人の写真を撮らせてもらった。
3歳になる娘のチャコちゃんは最初ご機嫌だったけど、僕が冗談でチャコちゃんの帽子をとって被ると、お気に入りの帽子をとられたチャコちゃんは泣き出してしまった。
楠平さんがチャコちゃんを泣き止まそうとして、大好きなおにぎりをにぎりに店内に入った。
楠平さんはおばあちゃん子で、特に母方のおばあちゃんに可愛がってもらっていた。
親戚の通夜のとき、おばあちゃんが孫たちにおにぎりをにぎってくれた。
そのおにぎりはシンプルなつよめの塩おにぎりで、具が入っていないおにぎりを初めて食べた楠平さんは「何にも入ってないのに、なんでこんなにおいしいんだろう!」と不思議に思った。
そのおばあちゃんは今年98歳になる。
泣き止まそうとおにぎりをにぎったものの、チャコちゃんは食べる前に泣き疲れて寝てしまった。
にぎったおにぎりは楠平さんがひとつ、僕がひとつ食べた。
楠平さんがにぎったおにぎりは思い出のおばあちゃんのおにぎりとは全然違うおにぎりだった。
ふりかけをジャンジャカ混ぜて、にぎった上からさらに刻み海苔をぶっかけた無骨なおにぎりは、飾らない見た目通りの味の濃さで、なんとも楠平さんらしいおにぎりだった。
文・写真:阪本勇