金山が栄え、世阿弥が配流され、農作業と芸能が密接に結びつく佐渡島。かの島で開催される「大崎そばの会」は超ローカルな祭りでありながら、毎度満員御礼の大盛況。地元産そば粉の十割そばは食べ放題、お母さんたち手製の郷土料理が盛りだくさん。お腹を満たされてきた頃、閉じていたステージの幕がスルスルスルッと開くではないか!これも島外からこの祭りをめがけてくる理由なのか……!?
お腹一杯になったところで「大崎そばの会」、第2部・芸能篇のはじまりはじまり、でございます。拍手拍手拍手!
三味線の響きと共に幕が開き、始まったのは文弥(ぶんや)人形「山椒太夫」。
生き別れとなり悲しみのあまり目が見えなくなってしまった母と娘(安寿)が佐渡で対面を果たすも娘は命を落とし、母はその後、息子(厨子王)によって再び目が見えるようになるという場面が披露される。
親子の情と世の不条理がじわっと心に沁みてくる。
文弥人形というのは、江戸時代より伝わるひとり語りの文弥節に人形を合わせたもので、明治3年にここ佐渡島の大崎で発祥した。三味線を弾きながら物語を語る「太夫」とそれにあわせて人形を操る「遣い手」が演じる人形劇だ。
舞台に目を凝らしていると、あれれ、人形遣いを担当しているのはついさっきまで蕎麦を打ってた女性たち、そして開会の挨拶をされていた会長さんじゃないかしら。
そうなのだ、この第2部でお目見えする伝統芸能は、「大崎そばの会」の方々自らが演じてお客さんを楽しませる、という趣向なのである。
その後も「鳥刺し」「蟹舞」「ちょぼくり」「相撲甚句」などの伝統芸能が会員によって次々と演じられる。
なかでも会場をどっと湧かせるのは「御萬歳(おまんざい)」という上方漫才のルーツとも云われる門付け芸(元来は正月に門口や座敷で、その家の一年間の豊穣や多産を祈るための呪術的な予祝の芸)である。
太夫(たゆ)と才蔵(さいぞう)という2人の掛け合いによって演じられ、ちょっとヒップホップ的な側面も感じられる言葉の連続。
コミカル、かつ、なかなかにエッチな歌詞も出て来たりして生きている実感と人生の喜びを、率直に朗らかに歌うのです。
「こうこうづくして もうそうか ちゃんこに まんこに いうたが たゆさん まことにめでとうそうらえば んま~~~」
最高ですね。そう思っているのはボクだけではないようで、次々とステージに駆けつける観客からはおひねりが飛び交います。
お腹も心も楽しさで一杯になって、あっというまに3時間近くが経ってお開きである。
「大崎そばの会」は現在会員数22人。昔からこの地区では、家庭でそばを日常的に食べており、歌を歌いながら石臼で挽く作業を行なっていたのだという。
会が発足した1978(昭和53)年はインスタント食品が大流行する時代。そういう時にこそ手づくりの食材や料理を大切にしよう、という考えから地元産のそばを皆で食べて集まろう、と始まった。
そして2回目以降には、当時は演じられることも少なくなっていた芸能を発掘、研究して上演し、今に至るまで伝え続けている。
第1回目は100人ほどが集まったという。当初は会費1,000円で地酒・金鶴が飲み放題(!)だったのだが、お客さんから「そんなに飲ませなくてもいいよ(笑)」と言われ、それならと、カップ酒とジュースを供していたが「それもいらない(笑)」と要望があり、お酒を飲みたい人は購入する、あるいは持ち込みで、という現在のスタイルに落ち着いた。
お酒を出していたころは酔っぱらったおじさん達が、座敷でゴロンといびきをかいて横になる、なんていう風景も普通にあったよう。
現在では会費 大人2,500円、小人1,000円で年に5日程度(11月、12月、2月)「大崎そばの会」主催の宴を催しているが、30名以上の人数を集めて申し込めば、そのグループのための会も行なっていて(つまり貸し切り)、それがなんと年40~50回にもなっている。
古くから京都より文人・政治家たちが流罪され、さまざまな都の文化が土地の文化と混交して特有の文化が形作られた佐渡島のエッセンスに、じかに楽しく触れられ、しかもお腹一杯になるというこの「大崎そばの会」。
本当にうれしい体験だった。
ごちそうさまでした&ありがとうございます!
文・写真:大森克己