呑んだあとは鮭茶漬けで締めたい。きっちり呑んで締めまで行ける居酒屋は、自分のテリトリーに必ず持っておきたいもの。2019年12月号の鮭特集でも掲載した渋谷の名店「三漁洞」。本誌の記事では書けなかった鮭以外の素晴らしさを紹介します。
飲んで、歩きながら鼻歌なんて、ほとんどやったことがない。そう自覚していたが、この店は別であった。ひゃらーりひゃらりこ、飲みにいくと、なんとなく口ずさんでしまうのである――。
渋谷の再開発がとまらない。ビルが竣工するたびに、出口や連絡通路が変わり、迷う。
再開発の波は、酒場にも波及した。名店が姿を消した。その波は、あの店にも否応なしにやってきた。
渋谷、三漁洞。
渋谷駅。昔なら南口に出て、東急プラザを横目に見ながら246を渡る。入り口は探さないとわからないほど控えめである。細く長い階段を降りて提灯が目に入ると、そこが三漁洞であった。
たしかに洞穴みたいな店であった。
ただ、控えめなのに、酒が好きな、素敵な酒飲みの先達は皆知っていた。
地下にあったのに、渋谷のランドマークだった。居酒屋。そんな渋谷の三漁洞がなくなると聞いて、もう渋谷にはほとんど用が無くなると思われた。
年をかさねると、悪い予感ばかりが的中するが、時にこういうこともある。
三漁洞が移転して再開したのである。
行かぬ飲兵衛はもぐり、と言いたくなるほどの朗報である。
場所は前とそれほど変わっていない。大河のような246を渡ってすぐ。今度は路面店。けれど、やっぱりひかえめである。すこしセットバックした入り口の脇に看板こそあるけれど、歩道を歩いていてもほとんど、目印になるものはない。それなのに、なぜか、そこだけ、渋谷でいて渋谷でないような、不思議なたたずまいである。なにしろ、遮二無二に変身したがるいまの渋谷とは違って、変わらぬ顔をして待っている。雑踏と喧騒のなかで、ここだけ、すこしだけ、郊外の住宅街にポツンと残された林の、その奥のほうから吹く風のような空気が漂っている。
昭和42年に渋谷の桜丘町に開いた三漁洞。
かつては、地下に、「小体」の良き意味を凝縮したような空間だった。壁は渋い赤。床から柱にいたるまで、居酒屋にほしい設えがそろっていて隙がないのに、それでいて居心地がいい。
こんどの店はというと、白い壁が明るく、奥行きがぐっと長い店になった。カフェばっかり行ってる人だって、ここなら落ち着く。
入ってすぐに目につくのは、昔の店とおなじテーブルが並んでいることである。白木の、釘を使わない造りの、机、と呼びたくなるテーブルは、使い込まれて独特の丸みと色味になっていながらシミひとつない。撫でてるだけで、お銚子一本は軽い。
「基本的にメニューは変わってません」
岸和田出身の女将さん、石橋光子さんはリズムのいい関西アクセントまじりで話す。変わってないのは、メニューだけでなく、光子さんもである。真っ白な割烹着。笑顔と明るい声。いつも店のなかをしっかり見ていてくれて、この店で何かが足りなくて困ったことは一度だってない。
メニューはほぼ変わっていないのに、どういうわけか、ここへ行って品書きを見ると、いつも、初めて見るかのように心が躍る。刺身はいつも充実しているし、ぶり大根、あさりの酒蒸し、豚の角煮、莫久来、塩辛……。ずらりと並ぶどの品も、「私を選べ」などと野暮な主張はしない。しからば「間違いないですよ」と韜晦しつつ誘ってくる。さりとて全部食うわけにもいかず、しばし考える。といっても、迷うことは三漁洞では悩みではなく、ここでは完全に快楽なのである。皿が来た瞬間のその多幸感を思いつつ、ああじゃこうじゃと思い巡らしながら、注文する。
「昭和51年に店を引きつだいときから、色気は出すな味だけがんばれ、という先代の言葉はずっと守ってますの」
色気は出すな味だけがんばれ。けだし名言。金言。至言。その軸は、まったくブレることなく、やってきた一品、一品にいちいち瞠目する。
たとえば、ブリ大根。一年中置いているが、一体なぜ、この店にはいつも、かくも立派な大根が集まるのか。大根村と談合でもしてるのではないかとゲスの勘ぐりさえしたくなるほど、素晴らしい大根を、これまた、よき和紙によき墨がしみこむように、大根の隅々にまで煮汁がいきわたり、その表面は、まるで旨さで拵えた七宝焼きのように美しい。この大根が、必要な歯触りと弾力を保ちながら、ぎりぎりまでホロホロに仕上がっていて、口に入れるたび、たとえどんなにお喋りな酔客でも、言葉を、しばし失う。
そして、ブリは、ひかえめに脇に徹しつつ、一欠片口にした誰もが、このブリと煮汁のなかに漬かりたいと願ってしまう。幸せになる。酒はすいすいと進み、ひとり酒でこれといってめでたいこともないのに、にわかに祝い酒の心持ちになる。
あさりの酒蒸しは、ただの酒蒸しにあらず、ニンニクのスライスが忍ばせてあり、これが、実にきいている。ニンニクが入ると西洋めいた一皿になって日本酒には適さないかのように疑う人があれば、一口やってみればいい。ほとんど反射的に
「熱燗おねがいします」
と頼んでいるはずだ。あさりの身をもちろん、その出汁がニンニクと手をつないで、仲良く彩ったスープのありがたいこと。この一品にかぎっては、滋養と書いて「おいしい」と読む。
さらに、嬉しいのは、「これっぽっち」ということがないこと。
「チマチマした料理を出したり、お仕着せじゃなく、好きなものを出してほしいものなんだ、と言ってました」
たしかに、ここの肴は、どれも繊細に仕上げてあるけれど、どの品も豪放磊落な、弊衣破帽といった趣がある。ちゃんと食べ応えがある。さりとて食べ残すほどの量ではない。秋と冬の端境期、そんなときに、ちょうどいい間着のようにバランスは至妙。
そして大事なのが魚である。刺身である。三漁洞の刺身は良い。最高に良い。鮮度、品揃え、思い切りのいい盛り具合なのに、見惚れる美しさがある。雲母のように、美しいヒラメの薄造り。きらめくアジ。どこかの貴石のように美しいマグロ。へたな寿司屋は裸足どころか裸で逃げ出すでき。たまらないのである。
「海、川、湖と3つの釣りがある、地下の店だから三漁洞というわけです」
光子さんが言うように、創業者は大の釣り好きであった。開高健が教授願ったこともあるというほどである。
ただし。おそらく、誰が創業して、その誰の業績がどうのこうの、といった話、あるいは、そういうことをことさらに気にする人は、創業者が一番苦手したのではあるまいか。
なにしろいつもこう口にしていたという。
「面白い人ならどんな風態の人であってもつきあうし、その肩書なんて一切こちらから聞かないし、そういうものはどうでもいいと思っていたみたいです」
創業者は福田蘭堂。音楽家。尺八の名手としての演奏活動をしつつ、作曲家として多くの名曲を残した。NHKラジオで一斉を風靡した「新諸国物語 笛吹童子」の主題歌もそうである。アラフィフには、人形劇の主題歌として記憶に残っているのではあるまいか。歌い出しは、ひゃらーり、ひゃらりこ、である。
そして釣りの名手として名を馳せた。昭和42年に三漁洞を開業し、多くの仲間たちがつどった。その子息がやはり音楽家でのちに料理研究家となった元クレージーキャッツの石橋エータロー。その妻が光子さんである。
食事をするときは、やんごとなき人だろうと、ホームレスであろうと、同じ平常心でのぞむものだ、と生前から言っていた、という。そういう店だから、行くたびに、ちょっとはマシな飲兵衛に育ててもらっているような気がする。と言いつつ、帰り道もまた鼻歌まじりで、フツーの飲兵衛になる。もちろん、歌は、ひゃらーり、ひゃらりこ。そうそう、笛吹童子は、戦を嫌って武士を捨て、笛の音で人々を癒した気高い少年が主人公である。ほら、やっぱり。ここで飲むと、鼻歌まで、ちょっと気高くなっている。
文:加藤ジャンプ 写真:岡本寿