旅行作家の石田ゆうすけさんがアルゼンチンの「食」を追いかけるシリーズ第3話。牛肉が日本へ輸入解禁となったという噂を聞きつけ、アルゼンチン大使館を訪ねます。ラフな気持ちで門を叩くと、颯爽と現れたのは全権大使と一等書記官でした。
「アルゼンチンの牛肉は世界一旨い」
旅人たちは口を揃えて言う。僕もそう思う。ついでに言えば、パタゴニア地方のブランド羊はさらに旨い。でもどちらも日本には入ってこないから食べられないんだよな。と思っていたら、2019年の5月に東京のアルゼンチン大使館で肉のレセプションが行われ、アルゼンチン産牛肉が日本のスーパーで展開されたばかり、ということがわかった。
詳しい話を聞くために、9月のある日、アルゼンチン大使館を訪ねた。モダンな3階建てのビルだ。真夏のように暑い日だった。守衛さんに通され、ビルの中に入ると、外気以上の熱気に包まれた。
「えっ、何この暑さ?」
僕は世界旅行中、ビザを取るために数多くの大使館を訪ねたが、エアコンがない大使館なんて初めてだ。
しゃべらなければイケメンの若手熱血編集者、大治朗くんも眉をひそめた。
「先月に来たときもメチャメチャ暑かったです。そのときはエアコンが壊れてるって言ってました」
1ヶ月たってもそのままなのは、ラテンのノリか、あるいは日本の業者の問題か。ともあれ、この蒸し風呂状態の中で話を聞くのかぁ、とこちらからお願いしておきながら少し気が重くなった。
やがて通訳の女性が現れれて、エレベータに通され、3階に到着。ドアが開くと冷気が滑り込んできた。
「……3階はエアコン効いているんやね」
「僕が前回に来たときは暑い部屋に通されたのに……」
部屋もキンキンに冷えていて、社長室のように立派だった。アルゼンチンの国旗が立っている。
若い一等書記官のイヴァン・ダ・ポンテ氏に話を聞いた。いかにも真面目でやさしそうな男性だ。
「口蹄疫の問題で、日本には長らく生の牛肉は輸出できなかったのですが、パタゴニア地方の牛肉は安全だと判断され、2018年から輸出が解禁されました」
以来、主に外食店で取り扱われていたが、2019年の夏から一部の大型スーパーにも並ぶようになった。
「昔、我が国は世界一の牛肉輸出大国でした。アルゼンチンが世界の牛肉の値段を決めていたんです」
いまはアメリカ、ブラジル、中国に次いで生産量は世界4位だ。国土の広さや人口を考えると、その順位も妥当かなと思う。オーストラリアより上位というのがちょっと意外だけど。
「アルゼンチンでは牛を放し飼いにしています。食べているのは天然の草です。成長ホルモン剤ももちろん与えていません。発がん性が疑われるため、特にEUは成長ホルモン剤に厳しい姿勢を1980年代からとっています。そのEUに、アルゼンチンはこの30年間、牛肉を輸出し続けています」
アルゼンチンの牛を語るとき、イヴァン氏は何度も「シエンプレ、リブレ」と口にした。シエンプレは「いつも」で、リブレは「自由」だ。たしかに、そう。自由だった。
アルゼンチンを北から南まで、約3ヶ月かけて自転車で走ったが、牛たちは全土で放し飼いされ、悠々としたものだった。道中出会った日系人のお婆さんに「アルゼンチンの牛肉はなんでこんなに旨いんですかね」と訊いたら、お婆さんは「牛さんたちが広い大地でのんびり楽しく暮らしてるからよ」と少女のような笑顔で言った。その言葉がストンと胸に落ちたのをよく覚えている。
ロマンスグレーの紳士は、全権大使のアラン・ベロー氏だと紹介され、僕たちは背筋が伸びた。
大使も熱心、かつ軽妙に語ってくれた。
「アルゼンチン牛は軟らかくて肉の旨味が濃いのが特長です。試食してもらったとき、日本人のシェフは『肉汁が漏れずに包まれている』とそのジューシーさに驚いていました。肉の味をよくするために、最近では出荷前に穀物も与えています。交雑も盛んです。おいしい牛肉を食べるために努力を惜しみません。アルゼンチン人は大の牛肉好きですからね。牛肉の消費量は世界トップクラスです」
「わかります。僕が自転車旅行をしていたとき、土日になると町のあちこちでアサード(アルゼンチン式バーベキュー)の煙が上がっていて、町全体で一体どれだけ牛肉を焼いているんだよ!と思いました。その中を走っていると、よく声をかけられ、アサードパーティーに誘われましたよ」
「あはは。それは田舎でしょ。ブエノスアイレスなどの都市部では、そういうことはなかなか。そもそも田舎のように各家にアサードの竈があるわけじゃない。ブエノスアイレスの私の自宅もマンションなので、アサードをする場所がありません」
「えっ、そうなんですか。アサードしない人もいるんですねえ」
そりゃいるよな、と思いながら、冗談ぽくそう言った。すると大使から予想外のボレーが返ってきた。
「いえいえ、週末は毎週、別荘に行ってアサードをやってましたよ」
「あははは」
「はははは」
「……毎週?」
「そうですね、ほぼ毎週」
「私も毎週末やってました」
イヴァン氏も追随した。
「あと誕生日パーティーもアサードですね」
「牛肉にろうそくを立てて?」
「はは、さすがにそれはケーキです」
真面目なイヴァンさんは笑って答えた。大使も笑いながら話す。
「最近は熟成肉がブームだし、炭にハーブを入れたり、いろんな木を燃やして香りをつけたり、アサードも洗練されてきました」
「じゃあ味付けも以前みたいに岩塩だけじゃないんだ」
「いや、それはいまも同じです。岩塩と胡椒だけ。肉本来の味を楽しむのがアサードなんです」
ワインの興味深い話も聞くことができた。
アルゼンチンワインといえばマルベック種の赤。これと肉があれば、もう何もいらないというくらい幸せな調和を見せるのだが、そのマルベックの記念日“マルベック・ワールド・デー”というのが4月17日にあるそうだ。世界各地で様々なイベントが行われるんだとか。新酒を楽しむタイプのワインじゃないので、ボジョレー・ヌーヴォーの解禁日とは意味合いが違うが、イメージは重なる。
いずれにせよ、そのようなイベントでマルベックの認知度が上がり、肉とのあの幸福なコラボをたくさんの人が知れば、今後、日本でも味わう機会が増えていくかもしれない。
「ところでパタゴニアの羊は日本に入らないんですか?」
「いま来てますよ」
「は?」
「第一便がこっちに向かっています。数日内に着く予定です」
なんちゅうタイミングだ!ここだけの話、このアルゼンチン企画を考えたとき、「羊をめぐる冒険」にしようと思ったのだ。僕が最も感動した肉――パタゴニアの羊肉――をゴールとし、幾多の試練を乗り越えて、そこに辿り着くまでを活写しようと。でもなんだよこりゃ。すんなりありつけそうじゃん。トントン拍子すぎるやん。
……いや、まだだ。パタゴニアの伝統料理、羊の丸焼きがゴールなのだ。
丸焼きをするためには、場所を確保しなければならないし、経験ある調理人も必要だ。トントンいくわけがない。まだまだ苦難は続くのだ。冒険だ冒険だ。
その話をすると、イヴァン氏が涼しい顔で言った。
「この大使館の屋上に、アサード用のスペースや焼き台があるので、そこでできると思いますよ。大使館専属のシェフは肉を焼く名手だから慣れたものです」
「そうれ、トントン!」
バーベキューができる大使館なんて初めてだよ!
ま、それぐらいアサードは彼らにとってはもう切り離せない文化というわけだ。わかるなあ。だってやっぱり旨かったし、楽しかったもん。そのアサードを出している店が、東京の駒場にあるとイヴァン氏から聞いた。よーし、行ってみよう!
――つづく。
文:石田ゆうすけ 写真:中田浩資/石田ゆうすけ