海の向こうへ飛び出した料理人が、ミラノに自身のリストランテを構え、一つ星を獲った。今やイタリアのガストロノミー界を引っ張っる日本人シェフの徳吉洋二さん。彼が帰国の度に訪れるのは、東京の大井町線沿線にある焼鳥「鳥樹」。そこには、日本もイタリアも変わらぬ料理人の心を教えてくれた「東京のお父さん」がいる。
昭和/鳥樹 Toriki
僕/徳吉洋二“Ristorante TOKUYOSHI”
イタリアで日本人初のオーナーシェフとなった、ミラノ「Ristorante TOKUYOSHI(リストランテ トクヨシ)」の徳吉洋二さん。彼には、帰国して東京へ立ち寄る度に通う店がある。大井町線の旗の台にある焼鳥「鳥樹」だ。
華やかなガストロノミーの世界を駆け上がっているシェフと、庶民派の焼鳥。一瞬つながりそうにないけれど、その店には、彼が「東京のお父さん」と呼ぶ相原邦夫さんがいる。
「イタリアに行ってこい!と僕の背中を押してくれたのも、相原さんです」
その縁は徳吉さんの父、公司さんの学生時代に遡る。
「鳥樹」が開店した昭和48年、店のはす向かいに大学生の公司さんが下宿していた。実家のある鳥取から送られてきた特産の20世紀梨を受け取ったとき、たまたま通りがかった相原さんにお裾分けしたのがきっかけだ。
6歳上のお兄さんみたいな若い店主と、地方出身の大学生は意気投合。毎年のように鳥取へ遊びに行ったり、一緒に旅に出たり。公司さんが卒業して故郷に戻り、結婚して、お互いに子どもが生まれても交流は続いた。
だから徳吉さんは18歳で鳥取を出て調理師専門学校へ進学するときも、東京のお父さんを頼って上京。「鳥樹」の2階に3ヶ月住み込んで、生ビールを注いだり焼鳥を運んだりのお手伝いをしながら部屋を探し、学校に通ったのだった。
「目指す料理は違ったけど、僕はここで、哲学や人生観を学びました。相原さんはカウンターの中から、トークでどんどんお客さんを引き込んでいくけど、それは根本に“人を喜ばせたい”という気持ちがあるから。普段から人の悪口は言わないし、目を見て話す。お客さんのどんな些細なことも、それが愚痴であっても真剣に訊く。そういことをあたりまえに、ちゃんとやっていくことが大切なんだと」
かくして徳吉さんは東京で料理人になり、イタリアへ発つことになる。旅立ち前夜、相原さんから呼び出しがあった。準備もあるし申し訳ないけど、と一度は断ったものの、まあいいから来いと言う。
はたして、「鳥樹」の戸を引くと、常連やご近所の馴染み客、友人たちみんなの顔が待っていた。相原さんのサプライズ。徳吉さんは、曰く「実家の送別会より号泣」した。
あれから16年だ。取材時、相原さんに「なぜイタリアに行ってこい!と言ったのですか?」と訊ねると、そりゃそうでしょう、と逆に驚いた顔をされてしまった。
「よその国の料理をつくるっていうんだから、そこ行かなくちゃ。本人はお金の心配もしていたけど、バカ言ってんじゃないよって」
この言葉で、徳吉さんはどんなに勇気づけられただろう。いや、きっと彼だけじゃない。相原さんは自分でも知らぬ間に、周りのみんなの背中を押しているに違いない。
白衣もぱりっとした相原さんは、店にも、使う道具にも、人柄にも清潔感がある。磨かれた厨房に、きっちり研がれた包丁は有次と正本。道具の置き方、持ち方ひとつも綺麗だが、肉の焼き方がまた美しい。
「仕事ってのは綺麗でないと。うちは焼いているところが見えるでしょう?これからあなたが食べるものですっていう気持ちで焼くと、食べる人もおいしく感じてくれるものです」
そう言ってから、「多少アレでもね」とオチをつけてあははと笑った。
「鳥樹」は、鶏を1羽丸ごと仕入れ、お客の目の前で捌く焼鳥屋である。欲しい部位だけ取り寄せるのが一般的な現代では、珍しくなったやり方だ。
毛抜きと血抜きだけ施された大雛(おおびな)を、内臓つきのまま買い、どの部位も使い切る。そうする理由はただ一つ、鮮度である。
「鶏は、魚より鮮度が勝負。鮮度がよければ匂いもないし、形も崩れない。ピンと角の立ったものを口に入れる気持ちよさ、ですよ。そういう鶏はめちゃくちゃおいしい。部位別に売られる肉はいつ解体したかわからないけど、丸鶏はそういうわけにいかないですから、内臓もすべて間違いがない」
さらに「鳥樹」で仕入れるのは朝に絞めたての鶏だが、そうであっても鮮度は包丁を入れた途端、どんどん失われる。そのため相原さんは掃除(細かい毛を抜いたり、血合いや筋を取る)だけ丁寧に済ませておき、1羽ずつ、営業中にお客の目の前で解体。注文ごとに切リ出す発想は、鮨屋で刺身を切り置きしないのと同じことだ。
正本の包丁を入れると、まるでファスナーをおろすように、つーっと軽やかに肉が開いていく。そこからは、早回しかと思うほどの手早さだ。
「可能な限り、1秒でも早く。1秒なんてわずかな違いだとしても、違いがあるならいいほうを取る。そういう意識でやっていかないと」
料理人としての相原さんは、徳吉さん曰く「妥協をしない」。前の晩どんなに呑んでも、朝早くからきちっと仕事をしているし、一つの課題をとことん突き詰める。そういう背中を見せてくれた人。反対から言えば、徳吉さんは背中のメッセージをしっかりと受け取り、胸に焼き付けていた。
――鳥樹とTOKUYOSHI2/2につづく。
文:井川直子 写真:キッチンミノル