大人になってからというもの、果たして雨の中を傘もささずに外で過ごした経験はあっただろうか。記憶にございませんね。雨でもやるんですよね、草取りは。ひ弱な都会暮らしに慣れきっていると、雨中の農作業どころか、草むらにわけ入ったり、マムシと遭遇したり、なんてことはまずありませんからね。普段、口にしている米は、当たり前だけれど、自然が相手なんです。
マムシが出る!と聞いて足がすくんだ。おまけにポツリ、ポツリと雨も降り始めた。
大雨の前兆?
これは引き返すしかないか、と思案していたら、ほかのメンバーは鎌を選んだり、軍手を用意したり、ミネラルウォーターのボトルを並べたり、黙々と着々と準備を始めている。
やっぱり雨天決行かあ、田んぼの野良仕事には晴耕雨読の文字はないらしい。でもマムシは?
「倒伏(とうふく)はないから、草取りは難しくないですよ」とスタッフの竹中想さんは、人の気も知らずに、ニッと笑顔をみせた。
倒伏というのは文字通りイネが倒れること。そういえば道すがら目にした田んぼの中には、黄色く色づいてきたイネが、渦を描くように倒れているところがあった。かつて話題になったミステリーサークルを思わせる、見ようによっては美しくもある形状だが、かといってそのまま放っておくと、モミが収穫できなくなってしまうという。
倒伏はその倒れ方が風をイメージさせるので、原因はてっきり強風かと思いきや、なんと「一番は肥料のやりすぎ」とか。チッソ肥料を与えすぎると、成長が早く丈がヒョロヒョロと伸びすぎて茎が弱くなったり、葉が茂りすぎて根元あたりが日照不足になるから倒れてしまう。しかし我らの棚田は、肥料を抑え気味にしているから「安心」なのだ。
もうひとつ、土が弱い(ゆるんでいる)と、根元から流れるように倒れてしまうこともある。それでこの棚田も、いったん水を抜いて干し上げ、土を硬くする「中抜き(中干し)」をほどこしたという次第。前日に田んぼを見たとき、水がなくなっていたのはそのせいだった。
田んぼに目をやると、昨日の豪雨で1回目の草取りと同じくらいに水位は回復していた。こうして改めて田んぼを眺めると「早くこの邪魔くさい草を抜いてくれ」とイネたちが無言で訴えている気がするから不思議。いつの間にか芽生えた「棚田愛」がそう思わせるのか。
もう今日は命がけでやるしかない、と覚悟を決めた。
本日の作業テーマは内畦(うちあぜ)の草刈りと田んぼの草取り。内畦とは畦の田んぼ側に傾斜したのり面だ。みんなにならってぼくも鎌を選ぶ。錆のない真新しい鎌を一本手にした。マムシもこれで退治だ、ヤマタノオロチに立ち向かうスサノオノミコトだ!と、神話のヒーロー・イメージも脳内で総動員して、すぐ横の田んぼに足を踏み入れた。
あれ?
これはどうしたことか。水底がずいぶん硬いじゃないか。田植えのときは長靴の膝下くらいまで、ずぶずぶと泥に埋まった。7月8日、9日の草取りでは、深いところだと長靴の真ん中くらいまで泥に沈んだ。けれど今回はくるぶしくらいまで。おお、田んぼは生きている!イネが生長するだけではない。田んぼの土も生きて変化しているんだ、と感心した。もっともこれは、竹中さんらがきちんと排水管理をやってくれたおかげなんだけど。
田んぼで両足を踏んばり、内畦の草をばさばさと刈っていく。鎌が新しいせいか、この間の草刈りよりも進行が早い、こいつは調子がいいぞ。「ついに鎌さばきのコツをつかんだ」と、ひとり悦にいる。
バサバサと内畦の草を刈っていくと、真ん中あたりで手が止まった。こんもり茂った草の隙間に小さな空洞がある。こういうところにオロチは、いや違った、マムシは潜んでいるに違いない。ここは肝をすえて、エイ、ヤー、と鎌をふるった。草を取り払うとそこから姿をあらわしたのは、オロチならぬ、塩化ビニール製のパイプだ。その口から勢いよく水が噴きだしていた。なるほど、こうやって排水しながら田んぼの水位を一定量に保っているのだろう。
気合いを入れ直して草刈り続行。しかし暑い。もうそろそろ9月というのに、この蒸し暑さはなんだ!原因は雨と、何より堪え難い湿気に違いない。シャツの裏側では大粒の汗が、肌をつたってズボンまで流れ落ちているのがわかる、触らずとも感じる汗の感覚。その量は半端ではないはず。熱中症に注意と事前のブリーフィングであったな。水、水だ。ペットボトルは畦の向こう。と、ふり返ると、見知らぬ人の姿が。
誰?まさか?あの仙人ふうの髭がきれいに整えられている。ダンディじゃないか。キャップからのぞく髪もきれいに切り揃えられて、おしゃれなTシャツ姿。前とはまったくの別人だ。しかし、この人はまぎれもなく小林昇二さんだった。前回同様、棚田名人は忽然と姿を現した。
彼は長い柄の鎌を手に取ると、ヅカヅカと田んぼに入ってきた。そしてものの見事な鎌さばきで、草を刈り始めた。
なんてことだ!どうやったらあんなふうにイネを傷つけずに、雑草だけをうまく刈り取れるのか?ぼくらはしばしその腕前に見とれた。しかし見とれるだけではダメだったのだ。その後、ぼくはとんでもない失敗をやらかすことになる。
――つづく。
文:藤原智美 写真:阪本勇