「㐂寿司」の穴子が格別なのは、第一に素材を吟味する重要性があるとわかった。長い付き合いのもとに築かれた、仕入れ元との信頼関係があるからこそである。続いて、煮上げるまでの仕込みを見させてもらった。
「㐂寿司」の朝は穴子の仕込みで始まる。これは創業以来、変わらない儀式のようなものだ。
朝9時30分。豊洲市場での買い出しを終えた「㐂寿司」四代目の油井一浩さんが店に戻ってきた。
朝の買い出しは一浩さんと、弟の厚二さんが週替わりで交代する。買い出しに出かけた方が、その日はつけ台に立ち、鮨を握る。仲買から直接、魚の産地、状態を聞き、品物を熟知しているからだ。
厚二さんは、ここから煮穴子の準備にかかる。買い出しに行かなかった方が、その日の裏方となり、穴子の下準備を担当するのが「㐂寿司」の伝統である。
穴子は「割く」「洗う」「煮る」「冷ます」という工程を経て、店の看板である「煮穴子」となる。
穴子を割くのはつけ台のある調理場ではなく、別棟につくられた作業専門の台所だ。
この日、入荷した穴子は対馬産の20匹の穴子だ。さっきまで水槽の中で生きていたものを、仕入れ先の「山五」で活け〆にしてもらって持ち帰る。
「㐂寿司」では、その日に仕入れた穴子は、その日のうちに使い切るのが鉄則だ。したがって、穴子を割かない日はない。創業以来、来る日も来る日も穴子を割く。「山五」は毎日、「㐂寿司」のために数千本の中から15~20匹ほどの穴子を選り、準備する。
当然、値段を値切ったりもしないが、品物には妥協しない。何しろ店の看板商品なのだから。
毎日、穴子を触っていると、穴子に包丁を入れただけで、脂の乗り具合や、味の良し悪しが分かると厚二さんは言う。
「脂の乗った穴子は、包丁の刃先が中骨に沿ってスーッと滑るように入っていきます。季節によって微妙に身質が違いますし、同じ産地でも身が硬いやつ、柔らかいやつなど、どれひとつをとっても同じ魚はいません」
穴子は、専用のまな板の上で、胸ビレの上に目打ちを刺し、しっかりと固定する。背側から包丁を入れて、中骨に沿って包丁を切り進め、左手でしっかり魚を押さえながら、尾の先まで切り開く。内臓と、中骨を取り除き、頭と身を切り離す。最後に包丁で身をしごいて、汚れをきれいにとって完成だ。
1匹の穴子を割くのに所用する時間は、わずか十数秒。その小気味いい鮮やかな手つきは見ているだけで気持ちいい。
そして、ここからが「洗い」。あの口に入れた時に、微塵も泥臭さを感じない煮穴子は、この徹底した「洗い」の集大成とも言える。
通常、開いた穴子は、よく水でもみ洗いをしてぬめりをとるのだが、「㐂寿司」では数種類の塩を使う。もみ洗いすること数百回。
体重をかけて開いた穴子をもむ。やがて、白い泡状のぬめりが出てくる。このぬめりがなくなるまで、今度は水洗いを繰り返す。
何度も何度も、水が澄むまでボウルの水を取り替える。
地道な作業だが、これが結構な重労働だ。夏ともなれば全身から汗が噴き出してくるし、真冬は指先の感覚がなくなるほど冷たい。
最後の仕上げには、なんと専用のたわしが登場する。穴子の表面をゴシゴシと洗い、徹底して匂いの元を徹底的に洗い流す。
そして、また水洗い。
最後に虫がいないか、1匹ずつ電灯の光に透かして確認し、洗いは終了となる。
――明日につづく。
文:中原一歩 写真:岡本寿