西荻窪の酒場で聞いた話。「1日に2回、やって来るお客さんもいるんですよ」。なんと、酒場の入口と出口が一緒ということらしい。さらに「1軒目に寄ったことを、酔って忘れちゃって、最後にまた来るお客さんもいますよ。そういう方、結構います(笑)」。さらにさらに「西荻は、酒飲みにとって、住みやすい街だと思います!」。そうかぁ、編集者の石原正康さんが西荻で暮らしているのは、そういうことだったのか。
西荻窪に住み出したのは、まだバブルの匂いがプンプンする1991年頃からだった。
きっかけは、それまで住んでいた目白からの引っ越し先を探していたときに始まる。好きだった中央線沿線の不動産屋をしらみ潰しに当たっていくうち、荻窪の駅前の店に入ったら、「あ、石原さん!」と大声をかけられた。見れば受付の男の子は、知り合いのブックデザイナーの事務所から忽然と消えたK君だった。
まあ、あの事務所忙しすぎたんだな、と不動産屋に転職した彼の気持ちを慮りつつ、「もう、全部任せるから、K君決めて」と丸投げした。すぐに荻窪、西荻窪の駅それぞれから15分の2LDKの物件を紹介してくれた。家賃は13万5,000円。60平米くらいあった割には安く、即決した。
当時はバブル期だったから、僕の部屋と同じ間取りの上階の部屋が8,000万で売り出されていた。
玄関先に出ていたその物件案内を見て、もう一生マンションなんか買えんと思っていた。
荻窪駅行きのバスもあったので、当時勤めていた角川書店に行く朝は荻窪の駅を使ったが、帰りは断然西荻窪に寄って帰った。その頃は、いまみたいにおしゃれな印象は西荻窪にはなかった。比較的家賃が安くて、物価も安い、学生が多い、そんな街だった。
けど、美味しい店には事欠かなかった。もう閉店して久しいがローストビーフが名物の「真砂」。ワインの品揃えも良かった。ここの東京女子大に通うアルバイトの子たちは、圧倒的に可愛かった。地方の良家の才媛ばかりで、おおらかな美人ばかりだった。
1993年に出来たワインバー「エル ボンヴィーノ」。ここは最初、辻仁成さんに教えてもらい、通い詰めた。ミステリー小説ファンの堀信義さんっていう髭面の店主が、ブルゴーニュ・ワインを揃えた店をやり出していたのだ。そして、2018年に25周年の祝いがあったが、移り変わりの激しい西荻窪で25年続けるのは並大抵でない。堀さんの我儘はどこか哲学的で、好きだ。
あと通っていたのが「おたまじゃくし」という居酒屋。大塚さんっていうとっても親切で、懐の暖かい女性がやっていた。毎晩、そこで鮭のハラスを焼いて、味噌汁をつくってもらいごはんを食べていた。大塚さんは味噌が大嫌いで、味噌を見るのも嫌な人だったので、味噌汁は目分量でつくってもらったが、勘がいいからいつも美味しかった。あ、作家の奥泉光さんも「おたまじゃくし」の秋刀魚焼きが好きで、よくカウンターで賢い猫みたいに可愛く食べてた。
当時、3年ほど山田詠美さんと吉祥寺のスペイン語の学校に毎土曜日通っていた。英語は流暢なんだから、スペイン語なんていらないんじゃないと思っていたが、山田さんは予習もきっちりやる熱心な生徒だった。僕はアルゼンチンの歌手のアタウアルパ・ユパンキにどっぷりハマっていたので、彼の歌を歌いたくてスペイン語を学んだ。だが、毎度レッスンが終わるとこの「おたまじゃくし」で浴びるほど酒を飲むので、習ったことはすべて忘れていた。
そんな「おたまじゃくし」も、もうない。
――つづく。
文:石原正康 写真:石渡朋