「おにぎりの本当のおいしさってなんだろう」。その答えを求めて写真家・阪本勇は旅に出る。おばあちゃんがにぎる三色おにぎりは、みんなのご馳走だった。親戚のおばちゃんが、おばあちゃんの一周忌に再現してくれた三色おにぎりの味。
「僕たち孫はみんな、おばあちゃんっ子で」
おばあちゃんの葬式の最後に、孫を代表して年長のミノルくんが挨拶をした。
挨拶を細かく最後まで覚えていないけど、その喋り出しの言葉がすべてを表していた。
北條ばあちゃんは僕たちみんなを深く愛してくれて、また、誰からも愛されたおばあちゃんだった。
2018年7月17日の夜中、おばあちゃんは大阪の千船病院で亡くなった。92歳だった。
普段、僕は東京で生活しているが、その日、撮影の仕事で大阪にいた。撮影を終えて大阪の実家に帰ってきていたので、おばあちゃんの死に目に立ち会うことができた。
偶然だとは思っていない。
その前におばあちゃんに会ったときに、「次は7月17日に仕事で大阪に帰ってくるから」とベットで意識朦朧としているおばあちゃんの手をにぎって伝えていた。
人一倍おばあちゃんに愛された自覚のある僕は、おばあちゃんが待っててくれたんだと今でも信じている。
おばあちゃんはかっこよくて、かわいくて、もう最高な人だった。
いくつになっても自転車で近所に出かけたり、夜遅くの時間からバニラアイスを食べてもいいものか、とOLみたいに葛藤したりもしていた。
ふたりで出かけたとき、「ほんまは杖ついて歩いた方が楽やねんけどな」と僕に話すので、「ほんなら杖ついたらいいやん。家に取りに戻ったろか?」と言うと、バッグを「ポンポン」と叩き、折りたたみの杖が入ってると言う。ほんなら組んだらいいやんという僕に、「友達みんなが北條さんみたいに元気なん憧れるわーって言うから、みんなをがっかりさせたらあかんやろ。電車乗って、ひと駅過ぎたら杖ついていいことにしてるねん」と、独自のルールを持っていたりした。
おばあちゃんは4人の子供を産んだ。全員女の子で、その四姉妹の長女が僕のおかんだ。
20代の頃か30代の頃かは知らないけれど、離婚したおばあちゃんは女手ひとつで子供4人を育て上げた働き者だった。
80歳を過ぎても近所の工場から頼まれて、事務や経理のアルバイトをしていた。
「おばあちゃんに遺産はありません。でも自分の葬式代は貯めてるから迷惑もかけません」と宣言したこともあった。
先日、おばあちゃんの一周忌で親戚が集まった。
「この日は空けとくように」と、何ヶ月も前からおかんに言われていた。僕も一周忌のために大阪へ帰った。
昼から親戚が集まってみんなで食事会をする。その前におばあちゃんのお墓参りに行こうと、従兄弟のそのみちゃんに誘ってもらい、そのみちゃんと、そのみちゃんの兄のミノルくん、そして僕の兄ちゃんとの4人で、泉佐野にあるおばあちゃんのお墓へ行くことになった。ミノルくんが車を出してくれた。
おばあちゃんの次女で、ミノルくんとそのみちゃんのお母さんの、ともこおばちゃんが、朝からおにぎりをにぎってくれた。
ともこおばちゃんが言うには、おばあちゃんのおにぎりといえば、おこげのおにぎりと、三色おにぎりなんだという。
「昨日スーパー行ったら見つけてん。まだ桜でんぶってあるんやね」と言い、ともこおばちゃんが、桜でんぶを使っておばあちゃんのおにぎりを再現してくれた。それを持って墓まいりに行った。
おばあちゃんのお墓に水をかけ、線香を立て、墓前でみんなで三色おにぎりを食べた。
昔、兵庫県西宮市苦楽園の工場の食堂でおばあちゃんは働いていた。
その食堂は、途中からガス釜での炊飯器になったが、それまでは一斗缶に木の蓋をしてごはんを炊いていたので、必ずおこげができた。
おこげを職人さんたちに出すわけにはいかないので、そのおこげは自分たちの賄い飯のために、おにぎりにして置いておいた。
あるとき、大皿に置かれているおこげのおにぎりを見た職人さんが「それ1個ちょうだい」と言って持って行った。
次の日、その職人さんが「昨日のあれないんか?」と、おこげのおにぎりをまた持って行った。
自分たちの賄い飯としてつくっていただけなので、具も何も入っておらず、強めの塩でにぎっただけのおこげのおにぎりだったけど、職人さんたちの間でおいしいと噂になり、いつのまにか大人気になった。「ごはんいらんから、おこげふたつくれ」と言い出す職人さんまでいた。
僕はおばあちゃんのおこげのおにぎりを食べたことがない。
孫の中で、従兄弟のそのみちゃんだけはその味を知っていた。そのみちゃんは小学6年生の夏休み、お手伝いで毎日食堂に通っていた。
朝から働いて、お昼になっておこげのおにぎりと冷やしうどんをもらうのが楽しみだったらしい。
夏休みの終わりに、手伝い賃として5,000円と、ずっと欲しかったメトロノームを買ってもらったのも思い出として残っている。
三色おにぎりは、ともこおばちゃんが小学生の遠足や運動会のときにつくってもらっていたお弁当に入っていた。
桜でんぶと薄焼き卵と海苔のおにぎり。海苔がとろろ昆布に変わることもあったという。
「この時代、卵はまだ高かったんよ。卵焼きなんてお弁当に入れられなかった。だから薄焼き卵つくって、おにぎりに巻いてくれた」
時代もあるんだろうけど、みんなのお弁当は奈良漬とかカマボコを醤油で甘辛く炊いたものとか、とにかく茶色いものが多かったらしい。
でも、自分のお弁当を開けると三色の色鮮やかなおにぎりが入っている。
「北条さんとこのお弁当きれいやねー、いいなー、ってみんなに言われるねん。それがものそ自慢やってん!今でいうキャラ弁みたいなもんかもしれんね。おばあちゃんハイカラやったんやろね」
一周忌で親戚が集まり、おばあちゃんの写真の前でみんなで食べて飲み、酔っ払いながら、そんな話を聞かせてもらった。
昔、おばあちゃんと話していたときにある男性の話題になった。「俺、その人知らんわ。どんな人?」と聞くと、「ここいらで2番目にイケメンや」と話した。
「一番は誰なん?」と言うと、おばあちゃんは僕の顔を見て「あんたやんか」と答えた。僕が笑うと、おばあちゃんは真顔で僕の顔を見て、「何笑ってるんや」とでも言うように僕のほっぺたを「ぺちぺち」とたたき続けた。ただの日常の一コマかもしれないけれど、僕はこのときのことが忘れられない。どんな苦しい状況になろうが、どんなみっともない失敗をしようが、僕のことを肯定してくれる人がいるんだと思えることが、大げさに聞こえるかもしれないけれど、生きていく上でひとつの力になっている。
最後まで残っていた親戚で写真を撮った。もちろんおばあちゃんの写真も一緒に。
飲みすぎた僕の兄ちゃんはソファーで潰れていた。
これも親戚の中では見慣れた風景の一部になりつつある。
文・写真:阪本勇