米をつくるということ。
裸足の季節|米をつくるということ⑦

裸足の季節|米をつくるということ⑦

腹ごしらえを終えたら、もうひと仕事。午後はさっきまでと衣装替え。といっても、膝から下だけですけどね。身に着けていた何もかもを脱ぎ捨てて、再び泥の中へ。もう、快感です。田植え、第2ラウンドのゴングが鳴りました!

田植えはいいことだらけなの?

苗
午後の田植えを静かに待つ苗たち。未来の米がここにあるのだと思うと、不思議と気持ちも昂ぶってくる。

おいしい昼ごはんをいただいて麦茶で喉を潤すと、再びやる気が出てきた。
いざ、午後の田植えに向かおうとしたとき、はたと気づいた。今朝からまだ一度も手洗いに行っていないのだ。田んぼに入る前、熱中症を心配してミネラル水をたっぷり飲んでいたのに……。
気温は30度に達している。きっと体中の水分が尿までいけずに、汗で放出されたのだろう。普段のデスクワークだと、午前中に何度もトイレに行く。いささか頻尿気味で困っていたのに。これはいかん、もしかするとぼくの体力は、知らないうちに限界に達しているのか?少し自重し、麦茶もたくさん飲もう。
と、自分を諫めていると、なぜか辺りが騒がしい。

蛙
嫌われていることも知らず、涼しい顔の蛙くん。もちろん、愛でている者もいる。けれども、我関せずですわ。

ひとり、青年が青い顔をして立ちすくんでいる。田植えに参加している蛙嫌いの新人編集部員だ。無農薬だから田んぼにはきれいな緑色の雨蛙や蟾蜍(ひきがえる)が跳ねている。おたまじゃくしも泳いでいる。それが「嫌だ」と、しかめっ面をしていた現代っ子だったが、こんどは蛇でも出た?
騒ぎの原因は彼のスマホだった。どこかに置き忘れたらしい。仲間のスマホを借りて電話をかけてみても着信音は聞こえない、という。もしや、スマホは田んぼの泥の中なのか。平たい板チョコのような電子機器が水面を突き破って泥の中に突入するシーンがぼくの頭をかすめた。
ぼくも田んぼの中で中腰で作業をしているとき、シャツの胸ポケットに入れたメガネを落っことした。幸いメガネはシートの上に落ちて泥に沈まずに難を逃れた。田んぼに入ると、苗を植えつけることに夢中になって、ほかのことには注意が散漫になる。おまけにこの暑さだ。スマホの落下に気がつかないってこともある。

落ちた眼鏡
真ん中に眼鏡が落ちているの、わかるかな?手植えの田植えは腰を屈めて下を向くから、油断するとぽちゃん、あります。

田植えは手で苗の束を横に1本、2本、3本と植えて、一歩後退し、また横に1本、2本という単純作業で、いつの間にかリズムが出てくる。不思議と雑念が消えて、気がつくと、あっという間に時間が経っているという感じだ。田植えは抜群の集中力を生み出す。
こういう感覚は日常生活ではなかなか味わえない。なぜかというと、日常とは雑念の塊で成りたっているからだ。次から次に別々の思いや妄想や思考が起こり、頭の中は目まぐるしく回転している。いつもまとまりがなく、思考はつねに横道にそれてしまい、その後始末が煩雑きわまりない。
しかし、田植えの最中はそれがないのだ。雑念のない、ちょっとした瞑想のひとときともいえる。いまマインドフルネスという瞑想を利用した心のリフレッシュ方法が流行っているらしいが、みんな田植えをやったらいいんじゃないかなあ。そうだ、田植えは最高のマインドフルネスなのだ! 
午前中の2時間ばかりで、ぼくの体は疲れても気分はすっきり。田植えにマインド効果があるなんて、みんな知らないよなあ。もったいないなあ。

田植え
目の前の田植えに没頭する。体が勝手に動いて、泥の中に苗をにゅる、にゅると挿していく。心が無になったかのように。

田植えだったら脱ぐ。

ヒモ植え
畔の端と端に紐を巻きつけた木の棒を持ったスタッフが陣取り、ピンと紐を張る。一斉に紐に沿って、苗を植えながら後ずさりしていくのが、ヒモ植え。

さて、午後の田植えは田んぼを変えて、枠植えとヒモ植えだ。枠植えというのは木枠を水田の底の泥土に押して、そこに格子状の線をつくる。その線の交差点が苗を植えつけるポイントとなる。つまり木枠でつくった印が、一尺=30cmの間隔を正確に教えてくれるというわけ。いわば植え付けのルート案内である。
いよいよ入田。なぜ「いよいよ」かというと、こんどは長靴を脱いで裸足になって田んぼに入ることにしたからだ。やはり田植えをやるからには、田んぼの「泥」を直に体験したい、皮膚感覚で味わいたい、と思う。

田植え用の長靴も、靴下も脱ぎ捨て、いざ裸足となった藤原智美さん
田植え用の長靴も、靴下も脱ぎ捨て、いざ裸足となった藤原智美さん。裸足で地面を歩くなんて、いつ以来?

畦を歩く足どりが、長靴を履いたときより、見違えるほど軽やかになった。そして入田。
おお、なんという快感だ。ぬるぬる、ずぼずぼ……。子どもの頃に、ぬかるみに足を突っこんで遊んだことがあったが、そのときとは、はるかに深みが違う。この泥はまるでマヨネーズだ。マヨネーズの中に脛まで足を突っこんだ感じ。足の指の間から、むにゅむにゅとマヨネーズがふきだしてくる。泥の快楽だ。おまけに、ひんやりと冷たくて心地いい。
あるとき、人類学者の真家和生さんが面白い話を聞かせてくれた。弥生時代の遺跡から出たある水田跡に人間の足跡が残っていた。田植え直前のまっさらな水田だった。興味深いのは、その足跡の歩幅がまちまちで、ふらついて歩いたように見えることだ。不自然に途中で直角に方向を変えている。人類学者は酔っぱらった男が、遊び半分に水田に飛びこんでつけたものだと推測している。当時の水田は命の糧を生みだすほとんど唯一の神聖な場だった。いたずら心が芽生えて、酔った勢いで羽目を外したに違いない、と真家さんは言う。

泥の中に裸足でイン
泥の中に裸足でイン。底の見えない田んぼへ足を踏み入れるのは、少しばかりの勇気と忘れかけてた悪戯心が必要かな。

ぼくは裸足で入田して、弥生時代のその人物の気持ちがわかった気がした。田んぼの泥に足を入れるのは、なんともいえず快感なのだ。酔っていても、いなくても。あの足跡が急に直角に曲がっているというのは、きっと見つかって長老か誰かに叱られて、驚いて逃げたのではないか。
普段のぼくらは硬いコンクリートや床の上で靴やスリッパを履いて暮らしている。現代人が裸足になるのはベッドに入るときぐらいだろう。田んぼの泥という、なんともいいようのない、やわらかくやさしい感触が非日常感、ハレの世界へとぼくらを導く。裸足の田植えは最強のマインドフルネスに違いない。
ここでひとつの疑問が浮かぶ。ぼくも、みんなも当たり前だと思っていること、水田に水がたまっていることは、じつはとても不思議なことなんじゃないか。泥土がないと水田はないし、ぼくらは米を食べられない。で、その泥はいったいどこからくるの、なんで水は地中にしみこんで、干上がってしまわないの?

――つづく。

藤原さんの足を守った長靴
午前の田植えで、藤原さんの足を守った長靴。泥んこ。いまは素足ですべてを受け止めている。どうなるかな?

文:藤原智美 写真:阪本勇

藤原 智美

藤原 智美 (作家)

1955年、福岡県福岡市生まれ。1990年に小説家としてデビュー。1992年に『運転士』で第107回芥川龍之介賞を受賞。小説の傍ら、ドキュメンタリー作品を手がけ、1997年に上梓した『「家をつくる」ということ』がベストセラーになる。主な著作に『暴走老人!』(文春文庫)、『文は一行目から書かなくていい』(小学館文庫)、『あなたがスマホを見ているときスマホもあなたを見ている』(プレジデント社)、『この先をどう生きるか』(文藝春秋)などがある。2019年12月5日に『つながらない勇気』(文春文庫)が発売となる。1998年には瀬々敬久監督で『恋する犯罪』が哀川翔・西島秀俊主演で『冷血の罠』として映画化されている。