夏に旬を迎える光ものの代表格、鯵(あじ)。選り抜いたおろしたての鯵は、酢で軽く〆、薬味と合わせ、酢飯を合わせることで、握り鮨でしか味わえない味わいに昇華する。白身や貝とともに、夏ならではの鮨の美味を堪能したい。
夏の鮨種の中でも「光もの」の筆頭は、鯵だ。
鯵と聞いて脳裏に浮かぶ風景がある。
三浦半島から駿河湾にかけての、夏の陽光にキラキラと輝くコバルトブルーの海だ。この一帯は関東有数の産地として知られている。釣り上げたばかりの鯵は、銀色というより黄金色をしていて、いかにも旨そうな風貌をしている。駿河湾では桜海老を食べて育った鯵が最上級品だそうだ。
鯵は江戸前鮨でも定番の種として親しまれてきた。古くから東京湾でも頻繁に獲れたのだ。
ただ、鰯と同じく鮮度が落ちるのが早い。輸送や冷蔵の技術に乏しかった時代はなおさらだろう。
そこで鮨職人によって考案されたのが、「酢〆」の技術である。
塩を振り、酢に漬けることで、魚の腐敗臭を取り除き、保存を効かせる技法は、江戸前鮨の古典的な仕事として広まった。小田原名物の「小鯵の押し寿司」もこれに通じる。
鯵は季節を通じて全国の海で獲れる。近年では「関あじ」の名前で知られるブランドも市場に並ぶが、「㐂寿司」四代目の油井一浩さんが好んで使うのは、鯛で有名な兵庫の淡路で獲れた品物だ。
鯵は小ぶりのものを選び、片身で一貫の鮨として握る。
「淡路の鯵は腹側だけでなく、全体的に脂がのっているので、身がほんのりと白っぽい色をしています。肉厚なので食べ応えもあり、誰でも食べやすい。産地よりも品物の質を優先するので、絶対に淡路と決めているわけではありません。しかし、夏の淡路は間違いないと思っています」
青魚はくせがあると敬遠する人がいるが、「㐂寿司」の鯵を食べたなら世界が変わるかもしれない。
嫌なくせは微塵もなく、肉厚な身は噛むほどに甘い。
つい、もう1貫、おかわりを頼んでしまう。
酢飯に噛ませるのはわさびではなく生姜。そして、細かく刻んだあさつき。
白身や貝の間にこういった味わいの趣向が変わる鮨種を挟むことで、鮨を最後まで楽しむことができる。
間違ってはいけないのは、江戸前の仕事は、その仕事を忠実に受け継ぐことに値打ちがあるのではなく、あくまで、生よりもおいしくなることが大前提なのだ。
ただ伝統に則って仕事をすればいいものではない。時代と共に仕事の内容は変化して当然である。
同じ「酢〆」でも、江戸時代のそれとは、塩を振って置く時間や、酢に漬ける時間が目に見えて違うと一浩さんは語る。
「塩を振るのはあくまで、魚の余分な水分と雑味だけを引き出して除くためです。そもそも、現代の冷蔵技術は昔と比べ、格段に進歩しましたので、生でも十分に食べることができます。だから、塩を振って置く時間も、わずか数分。鯵の表面から水分が浮き出ますので、その頃合いを見極めて、しっかり水でしっかり洗い流します。酢も『漬ける』というよりさっと『くぐらせる』だけです。その日の魚の状態を見て加減しますので、厳密に何分なんて約束ごとはありません」
握る直前、酢〆状態の鯵の皮を剥ぎ、包丁で身の上部に切れ目を入れて、飾り切りを施す。すると、わずかに残る銀皮の合間から、やや赤みを帯びた鯵の身が浮き上がる。煮切り醤油をひと塗りすると、なお美しい。
鯵が木札に並ぶのは6月から9月まで。硬めに炊かれた酢飯が、柔らかい鯵の身と渾然一体となって、口の中ではらはらとほどけてゆく。
爽やかな生姜とあさつきの香りが後を追ってやってくる。
この絶妙な味の加減を知ってしまうと、毎年、夏の到来が待ち遠しくなる。
ああ、誰かに食べさせてあげたい――。
驚きとともに思わずほころぶ顔が、より一層、夏の鮨を愉しくするだろう。
――つづく。
文:中原一歩 写真:岡本寿