福井市の繁華街で、御年78歳のバーテンダーが営むオーセンティックバー「ニュー淀」。熟練の技が冴えるカクテルやブランデーと存分に堪能した直後、マスターは「まだ努力中の酒があるんや!」と言った。完成をめざしているカクテルとは?
19歳でバーの世界に飛び込んで約60年。
バーテンダー人生の円熟の極みに達する域であろうに、マスターの嶋田修身さんはこう言い放った。
「まだ完成させていない酒がある。1年半前から挑戦していてまだ努力中や」
国内最大のバーテンダー協会である「日本バーテンダー協会(NBA)」の福井支部長を務め、65歳を超えてからは中部日本の名誉職も務めた。
経験も知識も豊富なマスターが新たに取り組む酒とは?
「コーヒーの酒やね」
聞けば、それは漬け込み酒のリキュールのようなものであるという。
最初はブレンドコーヒーの豆を買ってきて使っていたが、今は店に焙煎してもらった豆7種(!)を自身でブレンドしているという。
使うスピリッツは2種。コーヒー豆を酒に漬け込み、半年以上はねかせる。
「もっと浅煎りにしてくれるところに変えようかとも思ったけれど、むしろスピリッツの方をコーヒー豆に合わそうと思ったんや。思う通りの酒が完成したら、絶対どこにもない酒になる!80歳までには完成させたいんや」
“未完成”というその酒を味見させてもらった。
ボトルから琥珀色の液体が、とろりと注がれた。キンキンに冷やされており、小さなグラスはすぐに霜がついた。滑らかで甘くて香ばしくて酸味があって、十分おいしいと思った。
「夏はアイスクリームにかけて出すのもいいな」とマスターは考えている。
味わいよりなにより、その貪欲な意欲に驚かされた。
「酒のことを真剣に勉強していると歴史の勉強になるんや。たとえばジン。ジンはイギリスが有名だけど、もともとはオランダの大学の先生が熱さましのために造ったんや。ジンに使われるジュニパーベリーは熱さましの効果があるからな。1689年にオランダのウィリアム3世がイギリスの国王として迎えられたんや。それで今の製法の原形ができて味もおいしくなったんや」
ジンのことをひとつの例に挙げ、そして例の文句でキメた。
「がんばることがすべてじゃないけど、がんばることは尊いよ。努力なくして運向かず。苦しみは成長への隠し味や」
名語録をさらりと話すマスターも、若き日はある客にさんざん泣かされたという。
毎度、ジンフィズを注文するその客は、ひと口つける度に「バケツ持ってこい~」とそのカクテルをバシャリと捨ててしまったのだという。
ところが、ある夜、「うわ、今日のはおいしいなぁ!」と飲み干した。
「もううれしくてね。それから何も怖くなくなった。スランプのときは苦しんだり悩んだりした方が、その後の伸び率がいいというもんや」
そして、都心とは違う地方都市のバーの在り方について話を続けた。
「バーとはお酒を飲んで寛ぐ憩いの場所。地方都市に行くほどその傾向は強いんじゃないかなぁ。実はお酒はほどほどにあればいい。東京では“おいしさ”のギリギリのところを求めたり、対話をしなくても成立するけど、地方では通じないわな。そろそろ閉めようかなという時間にお客さんが入ってきても、明日が暇かもしれないと思えば、な。笑って受け入れられるわな。久しぶりに来たお客さんが傘を忘れてったら、次の日その人の会社まで届けてあげる、ってこともやる。バーテンダーは気配り、目配り、心配りや」
長くバーを続けているだけに、30年ぶりの客がやって来て「まだお前生きとったんか」なんて、挨拶変わりの冗談を飛ばしてくる。
「古いお客さんが今も来てくれることが悦びかな。僕は体が動く間はバーテンダーをやる。やりたいことができて、恵まれた人生ですよ。それは自分の努力もあるかもしれんね」
まずは、“絶対どこにもない”コーヒーの酒を完成させること。
「ニュー淀」で燃えるのは、火を灯すカクテルだけではない。
マスターの情熱だって、今も燃えているのだ。
(了)
文:沼由美子 写真:出地瑠以