「おにぎりの本当のおいしさってなんだろう」。その答えを求めて写真家・阪本勇は旅に出る。かつて大阪にあったパン屋「ロンドン」が実家である映画監督の進太郎に、パンとおにぎりの話を聞いた。
おにぎりの写真を撮ったり、おにぎりの思い出をエッセイに書いたりしていると、「パンは嫌いなん?」と質問されることがある。
それはとんだ誤解で、僕はおにぎりもパンも大好き。よく「ごはん派か、パン派か」という議論がなされるように、世間ではおにぎりとパンは、なんとなくライバル関係にある印象を持つ人が多いように思う。
僕の幼馴染に日原進太郎というパン屋の息子がいる。
今は映画監督として活躍している進太郎に、子供の頃のおにぎりの思い出を聞いてみるとしばらく考え込み、「うーん。まったくないわ」とつれないことを言う。
進太郎の両親が経営していたパン屋「ロンドン」は僕らの地元である大阪・箕面の人気店だった。惣菜パンやら菓子パンなど、いろいろなオリジナルメニューが登場していた。なかでも定番のラスクは近所でも評判だった。
そんなパン屋の息子の進太郎の朝食は、小学校6年生まではずっとパンだった。朝、店から自分で好きなパンを選んできて、食卓で牛乳と一緒に食べる。
僕からしたら羨ましくてたまらない環境で育った進太郎は、あまりにもパンに囲まれすぎて、子供の頃はパンが嫌いだった。
その頃、毎朝どんなパンを好んで選んでいたかも覚えておらず、ごはんと味噌汁の朝食に憧れを抱いていた。
小学生のときに進太郎の家にお泊まりに行った。進太郎のお母さんから「いさむくん、明日の朝なんのパンが食べたい?」と聞かれ、即座に「ハンバーグパン!」と答えた。
当時、パンの上にハンバーグが乗っかっているボリュームたっぷりのそのパンが僕は大好きだった。
次の日の朝、出されたハンバーグパンに僕は驚いてしまった。いつもは半分に切られたハンバーグが乗っているのに、目の前のハンバーグパンには、まるまる1個が「どでん!」と乗っかっていたのだ。「特別につくったでー!」と言って笑う進太郎のお母さん。そのときも進太郎はあまり興味なさそうに、横でなにかのパンを口に運んでいた。
母親同士も仲が良く、家の固定電話でよく世間話をしていた。
売れ残ったパンを袋に詰め、夜、進太郎が家に持ってきてくれることもよくあった。
僕の家は電気、水道、ガス、電話がよく止まった。大人になってそれを人に話すと驚かれるけれど、子供の頃はそれが普通かと思っていた。
電気、水道、ガスに比べたら電話は優先順位が低いので、本当に頻繁に止まっていた。
ある夜、進太郎がいつものように店のパンを持ってきてくれた。
「お母さんが、いさむんちに電話したら『電話止まってるから困ってるはずや。急いでパン持って行ってあげ!』って」と、ついさっき親子で交わされたであろう会話をそのまま僕に伝えて、パンパンに膨らんだ紙袋を渡してくれた。
そのときに初めて他の家では電話は止まらないことを知った。進太郎のお母さんは、僕が東京でひとり暮らしを始めてからも「いさむくんの分も入れたから」といって進太郎にパンを送ってくれていた。
僕の体の半分は「ロンドン」のパンでできている。
僕と進太郎が通っていた箕面東小学校の給食は月、水、木、土がパンで、火、金がごはんの日だった。
進太郎にとって月、水、木、土の給食は苦痛で仕方なかった。なんでパンの日の方が多いのかと学校を恨んだ。
小学校2年生のとき、進太郎はとうとう給食のパンが嫌になった。残すと先生に怒られると思い、パンは机の引き出しに詰めて隠した。次第に引き出しの中はカビの生え出たパンでいっぱいになった。
引き出しに入らなくなると、次はベランダに持って行き、排水溝に詰めるようになった。
ある日、棒っきれで排水溝にパンを詰めていると、担任のタキザワ先生が立っていた。
「日原くん、パン屋の息子でしょう。そんなことしてたらお母さんが悲しむよ」と言われて怖くなった。
先生からお母さんに言われるのが怖くて、家に帰ると、恐る恐る自分からお母さんに言った。
それを聞いたお母さんは「学校のパン、まずいからしゃーないやろ」と言い、怒られるかと思っていた進太郎は拍子抜けした。
続いて話してくれたおにぎりの思い出にも、やはりパンがついてきた。
幼稚園の遠足のお昼ごはんの時間。ピクニックシートの上に座り、みんながリュックサックからおにぎりを取り出すなか、進太郎はリュックからパンを取り出した。
遠足という非日常のイベントの最中に、まったくの日常である「ロンドン」の紙袋が出てきて、急に周りの子たちが持ってきていたおにぎりが羨ましくなり、進太郎は拗ねてパンを食べなかった。
ふてくされてパンを睨んでいる写真も実家に残っているという。
おにぎりの思い出がないというより、パンとの思い出が多すぎるのだ。
「子供の頃の思い出とちゃうけど」という前置きで進太郎がひとつ話してくれた。大人になってから実家に帰り、東京に戻るときにはパンではなく、母親がおにぎりをにぎって渡してくれたらしい。
新幹線の中でそのおにぎりを食べた。「おにぎり」と聞くと、その時間を思い出すと。
奥さんの由里子ちゃんに聞いても、やっぱり新幹線の中で食べるおにぎりを思い出すという。
実家の岩手に子供を連れて帰ると、東京に戻る日に、お母さんは3つおにぎりをにぎってくれる。由里子ちゃんの分、長男の与壱の分、次男の弐作の分。そのおにぎりは大葉を塩漬けしたものを、海苔の代わりに巻いているらしい。
そういえば僕も帰省し、東京に戻る日にはいつもおかんがおにぎりを用意してくれる。
おかんという生き物は、自分の子供が遠く離れるときはおにぎりをにぎる習性があることがわかった。
進太郎と話している間に、由里子ちゃんがおにぎりをにぎってくれた。
進太郎が映画の現場へ出かけるとき、自主制作の場合は予算もあまりないので、昼食用に現場のスタッフ分のおにぎりを由里子ちゃんがにぎって持たせることもあるらしく、さすがに手際がいい。
与壱も弐作も由里子ちゃんがにぎるおにぎりが好きなようで、与壱に「なんのおにぎりが好き?」と聞くと「梅!」と答え、進太郎に「うそつけ!」とつっこまれていた。
なぜか背伸びして梅と答えたけれど、本当はシャケが好きらしい。
由里子ちゃんがおにぎりをにぎるのを見ていたら、与壱もつくりたくなったのか、初めておにぎりをつくることに挑戦した。
おにぎりをにぎることがなんでそんなに楽しいのかわからないけれど、ケタケタ笑いながら、初めてにしてはとても器用に僕の分までにぎってくれた。
プラレールで遊んでいた弐作もその笑い声につられてやってきた。やはり弐作のにぎるおにぎりはぎこちなく、由里子ちゃんは手直しをしてあげた。
弐作はすぐに飽きて、つまみ食いをしてからプラレールに戻った。
与壱はいつの間にか折り紙でもおにぎりをつくってくれた。
進太郎は上京し、ひとり暮らしを始めてからは実家のパンを好きになったけれど、「ロンドン」を継ぐことはなかった。
「ロンドン」は数年前に店を閉めた。最終日、感謝の花束を持ってきたお客さんもいたらしい。地元のみんなに愛された店だった。
進太郎はパン屋を継がない代わりに『パン屋の息子』という映画を撮った。パン屋の息子として育った自分を題材にした映画で、劇中に登場するパン屋は実家の「ロンドン」だった。
ごはんを食べ終わった後、家の前の公園で家族写真を撮らせてもらった。
ここでも弐作は落ち着きがなく、こちらを見てくれなかった。
生まれたばかりの参里がおにぎりを食べられる年齢になったら、また撮りにこよう。
その頃には弐作も、ちゃんとカメラの方を見てくれるかな。
(追記)
遠足でパンの紙袋を睨みつけてる写真を使わせてくれと進太郎に頼んでいた。
進太郎が実家に電話して訳を説明すると、お母さんから“物言い”が入った。
「そんなんやったら私がちゃんとお弁当つくらんかったみたいやん!そのときだけや、そのとき!いさむくんにちゃんと言っときや!」とのこと。
それを聞いて、昔と変わらないお母さんに安心した。
文・写真:阪本勇