圧倒的な風格が漂う酒場のカウンター席へ。女だけでは入れないという硬派な姿勢を貫くその店の肴は、どれも潔いほど、ド・直球。飾り気なんかなくたって、驚くほど旨くて目を瞠る。ビールで喉を潤したら、いよいよお燗をいただきましょうか。
菊正宗を2合、燗でもらう。酒の揃えは菊正宗、櫻正宗、大関の3種で、一升瓶から正1合入る柄のついた枡に受け、それを徳利に移す。
銅壺(どうこ)といわれる燗付け器に徳利を差し込み、ご主人がときおり、温度を確かめる。
燗付け器には前後一列ずつ、それぞれ3つの銅壺があるが、それぞれ微妙に温度が違う。そこでご主人は、2合いっしょの注文のときは、2つの徳利の位置を入れ替えながら、2本の徳利の温度が同じになるよう塩梅する。
「こんなの(燗付け器のこと)は、昔は合羽橋で蹴飛ばすほど売ってましたよ。今じゃ、浅草と川口と京都とね。これを造れる職人がいなくなった」
さりげなく、そんな話も聞ける。だから、やはり、カウンターというのは特等席だね。
ご主人によれば、甘口の酒は、熱くしすぎると辛くなる。また、同じ酒を続けて出すときは、最初のより次の燗を熱くするという。酒の甘さを味わったうえで、その次には、飲み飽きのしないすっきりした仕上がりに、燗の具合をもっていくということか……。
なるほどねえ。言われてみると、そんな気がしてくるねえ。
あえて、質問することもなく、ぼんやりとそんなことを考える。ハタから見れば、ずいぶんのんびりした男に見えるかもしれないが、それでいいのだ。この時間は、無駄じゃない。
モツは口の中で甘く溶け、皮のぱりぱり感はさらなる食欲を導く。
次なる日本酒はさて、何か。
季節は過ぎたけれど、菊(菊正宗)と桜(櫻正宗)があるのなら、今度は桜だ。
こちらは甘口の、うま酒だ。
では、冷奴をいただこう。この奴、薄く切ってあって、簀の子の上にペロンと横になっていらっしゃる。なんとも鷹揚な構えの豆腐なのですが、食べやすいわ豆の風味はしっかりしてるわで、やはり、ちょっとした感動をもたらすのです。
長っ尻は無用の店だが、にわかに席を立ち難し。
合鴨の塩焼きに、今度は煮奴、それから、お新香をいただく。
合鴨の脂がまた、燗酒に合う。
すっかり調子が出てきて、大関の燗もいただくと、これがすっきりとしていて、するりと入っていく。長く愛される酒にはやはり、持ち味というものがあるようだ。
煮奴は、玉ねぎ入りの鶏モツ豆腐、といった一品で、そのままメシにのっけて掻き込みたい甘辛仕上げ。酒に合わぬわけはなく、その、少し甘くなりかかる口の中へ、これまた抜群のお新香を放り込んでぽりぽりやれば、ああ、オレはもう何もいらないと、50代半ばにして恥ずかしながら、思うのである。
大関の後は、また菊正宗に戻る。
いやあ、よく飲むねと思いながら残りのお新香を齧り、水などもいただいて、ふーっと腹を撫でれば、店の外に太鼓の響きがとどろくではないか。
聞けばこの日は元三島神社のお祭りだという。店のすぐ側の路地まで神輿が出たのだ。
時刻は午後7時。店の外へ出てみると、神輿の一群は、今まさに、本日の巡行を終えたところであるらしかった。
彼らは、これから酒だ。いいねえ。今夜の酒はまた、格別だろう。
私もそのご相伴にあずかった気分。まだまだ飲んでいたいが、この、居心地のいい酒場のひと席は、次の人に譲るタイミングだ。
ご馳走さま。いい酒になりました。
東京・根岸「鍵屋」 了
文:大竹聡 イラスト:信濃八太郎