ジンがベースのスタンダードカクテル、ギムレット。小説に登場したことで一躍有名になり、枕詞のようにそのタイトル『長いお別れ』が挙げられる。大小さまざまな別れが繰り広げられる春の夜は、クラシカルなギムレットを味わうのはいかが?
日中の艶めかしいような暖かさと打って変わる、春の夜のひんやりした空気。
ほっぺたの内側がきゅっとする甘酸っぱさでいて、想像以上に効く「EST!」のギムレット。
2つの隔たりをはらんだカクテルは、どこか春の空気と通じている。
ギムレットには枕詞のように、レイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』が挙げられる。1953年刊行の、このカクテルを一躍有名にしたハードボイルド小説で、印象的なシーンのセリフでギムレットが登場するのだ。
2007年に新訳を手がけた村上春樹は、『ロング・グッドバイ』というタイトルで刊行した。大小あれど、春はさまざまな「グッドバイ」がくり広げられる季節でもあるから、やっぱりギムレットとつながっている気がする。
ギムレットは、ジンをベースとしたスタンダードカクテルだ。
19世紀に、イギリス東洋艦隊で飲まれていたスタイルが進化したものといわれている。英国海軍医のトーマス・ギムレット卿が、洋上で支給されていたジンをたしなむ将校たちに、健康のためにライムジュースを加えるよう提唱したのが始まりだという。
カクテルレシピの世界最古の原典といわれる『サヴォイ・カクテルブック』によると、そのレシピには、バローのプリマスジン1/2、ローズのライムジュース1/2をステアしてグラスへ、とある。
当時のライムジュースはすでに甘味付けのしてあるコーディアルで、このレシピ通りにつくったなら、相当甘い一杯ができあがるはずである。
シンプルなレシピだからこそ、ライム果汁やコーディアルはどんなものを使うか、ジンは何を使うかが大きく味を左右する。
「EST!」のギムレットは、柔らかな酸味をたたえている。マスターの渡辺昭男さんによると、その決め手となっているのは、ローズ社のライムジュースだと言う。
「僕が湯島のバー『琥珀』でバーテンダーをしていた頃は、生のライムが手に入らなくてね。出入りする果物屋さんに生のライムがどこかで買えないかと聞いてもどこにもないという。どこかに入ったら教えてほしいとお願いしておきました。ある日、当時の新宿の三越の八百屋に入ったと聞いて、一番に買いに行ったことがありました。1960年代後半のことです。
当時でもいくつかライムシロップのようなものが出ていましたが、僕は味わいからしてどうしてもこのローズ社のライムジュースが使いたかったんです。日本には輸入されていなかったので、海外に行く方にお願いして買ってきてもらっていました。
ローズ社のライムジュースだとすでに甘味が付けてあって、砂糖などを加える必要がありません。反対にフレッシュのライム果汁だけだと、刺すような酸味が出てしまいます。そこで、その2つを合わせることに落ち着きました。
マティーニと違って、ギムレットはシェイクをするカクテルです。それもまた柔らかさにつながっているのではないでしょうか」
「EST!」では、ベースとなるジンは“ゴードン ドライジン”の度数47.3%を使っている。
すでに終売となってしまった度数のもので、現行品は37.5%、40%、43%の3種類。でもやっぱりこの度数でないと味が決まらない、と終売前に約100ケースを、つまり1200本(!)ものボトルを買い貯めたという。
バーテンダーの執念すら感じる本数である。
マスターは、ギムレットをリクエストする客に、違うカクテルを提案することもあった。
“ゴードン ドライジン”をベースにライムを加えてシェイクするもので、名前は“ベネット”という。ローズ社のライムジュースを入れない代わりに、少量の砂糖とアンゴスチュラビターズという苦味の強い薬草酒が加わる。
「この方はお酒がお好きな方だなぁとお見受けすると、ベネットをお薦めしたり、こちらで勝手に仕分けてしまうこともありました。お客様を見て、その方に合わせてカクテルをつくっていたんです。
ベネットはギムレットと似ていますが、アンゴスチュラビターズが入ることで味がしまって、ぐんと大人の味になりますね」
アンゴスチュラビターズとは、ラム酒をベースにりんどうの根や数種のハーブ、香辛料を浸漬してつくった苦味酒。もともとは、1824年にドイツ人医師、ヨハン・ゴッドリーブ・ベニヤミン・ジーゲルトが健胃、強壮の薬酒として考案したものである。
マスターのこの提案が気に入り、バーの開店から45年のうちに、「ギムレットじゃなくてベネットで」とリクエストする客も増えた。
バーは「ロング・グッドバイ」に浸るだけでなく、新しい発見と出会いがある場所でもあるのだ。
――つづく。
文:沼由美子 写真:渡部健五