写真家の大森克己さんの連載、シーズン2の2。生きていれば、当たり前だけれど、年を取る。年を重ねていけば、子供じゃなくて、大人と呼ばれるようになる。人目を憚らずに笑ったり、泣いたり、怒ったり……感情をむき出しにすることは少なくなり、俗に言う、丸くなっていくもの。多くの人が、きっとそう。
自宅の集合住宅の隣に住んでいた夫婦、おそらく1960代生まれのボクと同世代のふたりがどこかに引っ越してもう5年くらいになる。
よく仲睦まじくテニスや犬の散歩に出かけていて、ときどきエレヴェーターで会えば挨拶をする程度の付き合いだったのだが、ふたりのことを思い出して懐かしく、またちょっぴり寂しく思ったりすることがある。
それは何故かというと、ひと月に1度くらいのペースで盛大な夫婦喧嘩がふたりの間で繰り広げられるのです。
食器やグラスの割れる音と奥さんの炸裂するシャウトが敷地中にとどろき渡るのです。
夏場なんかは、こちらも窓を開け放っているものだから、いや、そりゃもう響いて響いて。比喩の表現で、まるで絵に描いたような、というのがありますが、その夫婦喧嘩の声と音は、まるで絵に描いたような夫婦喧嘩のものでした。
もちろん、ボクはその光景を直接見ているわけではないのだが、その音がね、本当に漫画のようで。初めてそれを聴いたときはあまりにびっくりして、まるで自分が怒られているかのように緊張したものだが、何度も続くうちにこちらも慣れてしまって「あ、またやってるな」ぐらいになっていく。
喧嘩っていうのは疲れるけれど、あんなに自分の怒りのエネルギーをダイレクトに出すということはなかなかないので、むしろそれを聴いた後はある種の爽快さをこちらが覚えて、羨ましいくらいのものでした。
まあ、他人の関係を勝手にあれこれ分析したり詮索したりできないし、悪口や罵声にはそれなりの負のオーラも当然あるのでうっかり無責任なことも言えないのだが、大声を出す、ということが必要な局面も生きているとありますよね。
喧嘩の翌日に限って仲良さげに、ちょっと距離感近すぎじゃないですか?というふたりにエレヴェーターで出会ったりしました。元気にしているかしら、あのふたり。1度くらい食事に誘ってみれば良かったか?
――4月25日につづく。
文・写真:大森克己