うららかな春の陽がさす頃から登場するオリジナルカクテルに、名前を持たないカクテルがある。だから、常連客は「黄色いあれ」と呼んだり、バーテンダーからは「季節の果物を使ったものはいかがですか」と薦められたりする。それで十分。バーでカクテルの名前を憶えていることはそう大事なことではないのかもしれない。
「EST!」の中で、もっとも短い期間しか飲めないカクテルである。3月下旬頃から登場し、2カ月と経たないうちに姿を消してしまう。5年ほど前に初めてこのバーにお目見えしたオリジナルで、名前は付いていない。だから、“名前のないカクテル”なんて呼ばれている。
短い間しか提供されない理由は、黄金柑という柑橘の果汁が主役だからである。「黄みかん」「ゴールデンオレンジ」とも呼ばれる直径5cmほどの小ぶりの柑橘で、鮮やかな黄色が印象的。「売り場で映えずらい」との理由からつくる農家が少なく、生産量も少ない。「EST!」では静岡県産のものと決めているため、提供できる期間も限られるというわけである。
このカクテルが誕生したのは、マスターの渡辺昭男さんが、5年ほど前に客からの頂き物で黄金柑を食べたことにあった。
「おいしいものに出合うと、ついカクテルにできないかと考えてしまって」とマスターは言う。
そして、こう続けた。
「もともとは熊本産の黄金柑をいただいたんです。マスター、おいしいから食べてみてって。皮を剥いてみると、ほかの柑橘にはない爽やかな香りが漂いました。そのまま食べるのではなく、僕は搾って飲んでみたんです。するとこれがおいしい。ジューシーで甘くて、カクテルに必要な酸味もある。そしてとても香りがいい。カクテルにするなら、どんなお酒が合うかを考えました。60年以上もバーテンダーをやっていると、おいしい果物に出会ったときについカクテルにできないかと考えてしまうんですね。
僕のオリジナルカクテルはラムを使ったものが多いのですが、これもほのかに甘味が感じられるラムと合わせてみたんです。それが誕生のきっかけです。黄金柑が甘すぎるときは、少しだけレモン果汁を入れて味を引き締めます」
マスターがリハビリ中で店に出られない現在、カウンターを守っている次男の宗憲さんが捨て猫を拾ってきたことがある。場所は、宗憲さんがオーナーバーテンダーを務めるバー「アトリウム」がある新橋。もう15年も前のことだ。
「雨の日に捨てられていて。どうにも見過ごせなくて」と、宗憲さんは四匹の猫を拾い、三匹は里親を見つけた。残りの一匹はいま、マスターの愛猫となっている。
「ミー」という名前が付けられ、呼べば返事をするほどに主にもその名前にもなついている。
――つづく。
文:沼由美子 写真:渡部健五