「EST!」のカクテルブック
それは"名前のないカクテル"|「EST!」のカクテルブック6杯目

それは"名前のないカクテル"|「EST!」のカクテルブック6杯目

うららかな春の陽がさす頃から登場するオリジナルカクテルに、名前を持たないカクテルがある。だから、常連客は「黄色いあれ」と呼んだり、バーテンダーからは「季節の果物を使ったものはいかがですか」と薦められたりする。それで十分。バーでカクテルの名前を憶えていることはそう大事なことではないのかもしれない。

吾輩はカクテルである。名前はまだない。

「EST!」の中で、もっとも短い期間しか飲めないカクテルである。3月下旬頃から登場し、2カ月と経たないうちに姿を消してしまう。5年ほど前に初めてこのバーにお目見えしたオリジナルで、名前は付いていない。だから、“名前のないカクテル”なんて呼ばれている。

名前のないカクテル
今年の提供は、5月上旬ぐらいまでが目安。搾りたての果汁をたっぷり使った甘酸っぱい味わい。香りもよい。

短い間しか提供されない理由は、黄金柑という柑橘の果汁が主役だからである。「黄みかん」「ゴールデンオレンジ」とも呼ばれる直径5cmほどの小ぶりの柑橘で、鮮やかな黄色が印象的。「売り場で映えずらい」との理由からつくる農家が少なく、生産量も少ない。「EST!」では静岡県産のものと決めているため、提供できる期間も限られるというわけである。
このカクテルが誕生したのは、マスターの渡辺昭男さんが、5年ほど前に客からの頂き物で黄金柑を食べたことにあった。

ラムは、キューバ産“ハバナクラブ3年”を使用。主張が強すぎない軽やかな味わいで、柑橘の風味を生かすことができる。
搾りたての黄金柑の果汁を、シェーカーに60ml注ぐ。
“ハバナクラブ3年”を同量の60ml注ぐ。
シェイクして、全体をよく混ぜ合わせる。

「おいしいものに出合うと、ついカクテルにできないかと考えてしまって」とマスターは言う。
そして、こう続けた。
「もともとは熊本産の黄金柑をいただいたんです。マスター、おいしいから食べてみてって。皮を剥いてみると、ほかの柑橘にはない爽やかな香りが漂いました。そのまま食べるのではなく、僕は搾って飲んでみたんです。するとこれがおいしい。ジューシーで甘くて、カクテルに必要な酸味もある。そしてとても香りがいい。カクテルにするなら、どんなお酒が合うかを考えました。60年以上もバーテンダーをやっていると、おいしい果物に出会ったときについカクテルにできないかと考えてしまうんですね。
僕のオリジナルカクテルはラムを使ったものが多いのですが、これもほのかに甘味が感じられるラムと合わせてみたんです。それが誕生のきっかけです。黄金柑が甘すぎるときは、少しだけレモン果汁を入れて味を引き締めます」

吾輩は猫である。名前はある。

外観
かつて「EST!」は雑誌やテレビに登場しないバーだったが、猫の専門誌に登場したことがある。硬派なバーと猫雑誌という異色の組み合わせだが、扉周りに住み着いてしまった猫を追いかけた記事だった。冬になると、黒い電飾看板に上って暖を取っているところをたびたび見かけた。それももう数年前のこと。いまはその姿を見かけることはない。

マスターがリハビリ中で店に出られない現在、カウンターを守っている次男の宗憲さんが捨て猫を拾ってきたことがある。場所は、宗憲さんがオーナーバーテンダーを務めるバー「アトリウム」がある新橋。もう15年も前のことだ。
「雨の日に捨てられていて。どうにも見過ごせなくて」と、宗憲さんは四匹の猫を拾い、三匹は里親を見つけた。残りの一匹はいま、マスターの愛猫となっている。
「ミー」という名前が付けられ、呼べば返事をするほどに主にもその名前にもなついている。

――つづく。

店舗情報店舗情報

EST!
  • 【住所】東京都文京区湯島345-3 小林ビル1階
  • 【電話番号】03-3831-0403
  • 【営業時間】18:00~24:00
  • 【定休日】日曜
  • 【アクセス】東京メトロ「湯島駅」より1分

文:沼由美子 写真:渡部健五

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沼 由美子(ライター・編集者)

横浜生まれ。バー巡りがライフワーク。とくに日本のバー文化の黎明期を支えてきた“おじいさんバーテンダー”にシビれる。醸造酒、蒸留酒も共に愛しており、フルーツブランデーに関しては東欧、フランス・アルザスの蒸留所を訪ねるほど惹かれている。最近は、まわれどまわれどその魅力が尽きることのない懐深き街、浅草を探訪する日々。