数多のワイナリーに囲まれ、勝沼のぶどう畑を見渡せる高台に建つ「ビストロ・ミル・プランタン」。「銀座レカン」の元チーフソムリエが、勝沼に移住して開いた一軒家のビストロである。ワイン業界で名を馳せ、第一線で活躍を続けた人物は、なぜ勝沼で新しい人生を始めたのだろうか。
「ミルプラさんね。あそこは、何を食べてもおいしいですよ」
勝沼ぶどう郷駅からタクシーに乗って行き先を告げると、女性の運転手さんが開口一番に言った。「休みの日にね、定期的に食べに行ってるの。お気に入りの店」だという。
車を走らせること5分。見えてきたのは、広々とした国道20号沿いにぽっかりと聳え立つ、三角屋根の一軒家だった。
「ビストロ・ミル・プランタン」。目的地は、2010年に勝沼の地にオープンしたビストロだ。オーナーの五味𠀋美さんは、老舗フレンチレストラン「銀座レカン」に18年間在籍し、チーフソムリエまで務めた人物である。ワイン関連のセミナーで講師を務めることも多く、ワイン業界で五味さんの名は広く知られている。
その五味さんが、勝沼にいる。山梨で働くのは初めてだ。いまでこそ「ミルプラさん」の通称で親しまれているが、当初は地域の新参者だった。
五味さんほどのキャリアの持ち主ならば、東京で最前線に立ち、世界のワインと料理を極めていく道もあったのではないかと、想像する。
その中で、わざわざ勝沼を選んだ。もちろん、確固たる理由があった。
ひとつは、五味さん自身が山梨県出身であったこと。いつか自分の店を持ったら、地元の食材を使った料理を出したいと考えていた。
もうひとつは、海外でワイナリーを巡ると素晴らしい景色が広がるレストランで食事をする機会が多かったこと。「ぶどう畑の見える場所で、おいしい料理を食べられるのって素敵だな」と、思っていた。
そして、甲州ワインのおいしさを知ったこと。
漠然と抱き続けてきた思いが結びつき、「勝沼で店を開こう」という決心につながった。
五味さんがまだ「銀座レカン」に在籍していた2002年のことだ。
藤沢グランドホテルで開催された“現代日本ワインの父”とも呼ばれる麻井宇介さんにとって最後となるワイン講演の席で、五味さんはサービスを務めた(この5ヶ月後、麻井さんはこの世を去った)。
当時はまだ、甲州ワインは世界的に評価され始めたばかり。五味さんが甲州ワインとじっくり向き合ったのも、この講演がほぼ初めてだった。
「きれいな味わいで、さまざまな食事に調和できそう」
これが、甲州ワインに対する五味さんの最初の感想だった。その言葉を聞いた麻井さんは「日本ワインは、これから飛躍的においしくなっていく」と、熱を込めて五味さんに説いた。対して五味さんは、抱いていた自身の夢を麻井さんに語ったという。
麻井さんは言った。
「素晴らしいことです。山梨のワイン、日本のワインのためにも、ぜひ実現させてください」
五味さんの中で、ぼんやりとしていた思いが形となった瞬間だった。
「ターニングポイントになりましたね。このときの麻井さんとの縁がなければ、いまも東京のどこかのお店で雇われながらソムリエを続けていたと思います」
「お店を持つと、自分の思い描いていた理想の店づくりができるわけですが、経理や設備の管理など、すべてのことを自分で考えなければいけなくなります。この店を開いたことで、身をもって知りましたね(笑)。雇われの身でいれば、サービスを極めたり、ワインの知識を深めたりと、自分のやりたいことに集中できます。いまでもたまに妻と話しているんです。どちらが正解かは誰にもわからないね、と(笑)」
2005年頃から、五味さんは東京で働きつつ、休日に勝沼を訪れては、ぶどう畑の見える物件を探すようになった。心は移住へと動いても、なかなか物件が見つからなかった。勝沼はワイナリーとして観光地化が進められ、景観を保護するために条例で新しく建物を建てて飲食店を増やすことができないこともあって、自分の店を開くためには、既存の建物を使うしかない。
このまま片手間で探していても、自分の店を開くことは難しいと思い、五味さんは「銀座レカン」を退職することにした。東京都内の飲食店を手伝ったりしながら、本格的に物件探しと独立準備へと取り掛かるようになった。
いまの場所にたどり着き、「ビストロ・ミル・プランタン」がオープンしたのは2010年7月。麻井さんから背中を押された日から8年、物件を探し始めて5年が経って、ようやく念願を叶えた。
「ビストロ・ミル・プランタン」は、オープンしてからその年の終わりまで、ずっと満席の状態が続いたという。長年、銀座で働いてきた五味さんに対する期待が大きかったんですね。そんな言葉を投げかけると、五味さんは「いやいや、必死でしたよ」と笑う。
「ぶどうが実る8月から醸造が始まる9月まで、勝沼は観光客で賑わいます。なので、その時期にはどうしても店を開きたかったんですね。でも、いきなり繁忙期を迎えると、何もかもが初めてなので、お客さまを十分に満足させることができないかもしれないという不安もあった。だから7月にオープンをして、ゆっくりと店を温めながら、ピークを迎えるようにしたかったんです。僕なりに知恵を絞ったんです(笑)」
その狙いは当たり、「ビストロ・ミル・プランタン」は幸先の良いスタートを切った。
こうして、五味さんの勝沼での新しい生活が始まった。
――つづく。
文:吉田彩乃 写真:遠藤素子