「㐂寿司」の365日。
「㐂寿司」のちらしは、吹き寄せる波のように。

「㐂寿司」のちらしは、吹き寄せる波のように。

「握り鮨が旨い鮨屋のカウンターでちらし?」なんて思うなかれ。「㐂寿司」のちらしは、酢飯に刺身をのせただけのものとは一味も二味も違う。見た目の華やかさも格別だ。これを読んだなら、江戸の技と心意気がぎゅっと詰め込まれたお重がいますぐ食べたくなる。

約18種もの鮨種を肴に、酢飯で〆る。

これまで、鮨屋のカウンターでちらしを食べる経験をしたことがなかった。そこに座ったならば、握りを食べることが当然だと思い込んでいたせいもある。
しかし、「㐂寿司」で見かけたある光景が、そんな固定概念を鮮やかに覆してみせた。それはある晴れた日の昼下がり。常連らしき一人の老紳士がカウンターに座るなりこう告げたのだ。

「ちらしをひとつ。あと常温のお酒をください」

ちらし
通いなれた客からも愛される、知る人ぞ知るちらし。3,780円。握りの貫数に換算してみたら、極めてお値打ちな一品である。

ちらしとお酒、という注文の仕方が、歴史を感じさせる日本家屋の風情と相まって、極めて洒脱に聞こえた。しかし、「㐂寿司」四代目の油井一浩さんによると、ここではさほど珍しいことではないという。
「㐂寿司」のちらしは楕円形の漆塗りのお重で供される。そこに詰め込まれるのは丁寧な仕事が施された多彩な具材だ。片っ端からあげてみるとこうなる。

さより、平目、マグロ、蛸、車海老、いか、帆立、筋子、煮いか、穴子、だし巻き玉子、かまぼこ、絹さや、椎茸、おぼろ、黄身おぼろ、たまり漬け、きゃらぶき。この日は全18種にも上った。

盛り付け前の種
盛り付け前の種をざっと並べただけでもこの艶やかさ。魚や貝は時季のものを。玉子は、芝海老のすり身と大和芋が入る鮨種と異なり、ちらし専用のだし巻き玉子が入る。

店の看板であり、江戸前の華とも呼ばれるマグロが、酢飯の上ではなく別添えにされている。ちらしは一見、地味なイメージがあるがとんでもない。このお重には小肌などの〆もの。穴子や煮いかなどの煮物。蛸や車海老などのゆでものなど「㐂寿司」の江戸前の仕事を構成するすべての要素がこれでもかと詰まっている。さらには、通常は握りには登場しないだし巻き玉子や椎茸煮まで。これを一気に味わえるのだから、いわば「江戸前の宝箱」。なんと贅沢だろうか。

番頭格の職人である山岸利光さんは、ちらしで一杯やる常連の気持ちをこう代弁する。
「上に乗っかっている種をアテにお銚子を一本やって、最後はかんぴょうやがりを混ぜた酢飯で締めるのがちょうど具合がいいんです。そうでなくても、毎週、ちらしだけを食べに来られるお客様もおられます。それぞれの種ごとの味がついていますので、お醤油とわさびは全体に回しかけるのではなく、その都度、マグロなど生の種につけていただければと思います。うちのは種が多いから酢飯が足りないという人だっています」

酢飯で〆る
赤酢と米酢を用いる酢飯に、かんぴょう、がり、もみ海苔を混ぜる。これだけでもうっかり杯が進んでしまいそう。

握りの醍醐味は、「ライブ感」にある。たとえば、隣の客が旨そうに頬張る「初鰹」がちらりと視界に入ったとして、思わず「こっちも初鰹をもらおうかな」とつい口にしてしまうような。そして、そんな客の変則的な注文にも「かしこまりました」と快く対応してくれる一浩さんら職人とのやりとりも味のうちだ。

さより
注文が入ってから、握りにも用いる魚を下ろしていく。光物は時季のもので、この日はさよりを。
マグロ
惚れ惚れするような美しいマグロも、惜しげなく大振りに下ろしていく。しかも一人前3枚も!

一方のちらしはそうはいかない。その場の勢いというよりも、丁寧に仕事が施された種を、酢飯と一緒にしみじみ味わう優雅な逸品だ。ひと昔前まで、「㐂寿司」では毎日、まとまった数のちらしの出前の注文が入ったそうだ。注文の主は、隣接した日本橋兜町に本社を構える証券会社や銀行、大手企業。出前は昼時に多く、界隈で重宝されたという。そんな日は昼に向けて、職人が総出でちらしを盛り込んだ。出前は一浩さんら若い衆が分担し、自転車で運んだという。

江戸前のちらし鮨の流儀「吹き寄せ」。

花柳界が健在だった時分には、お座敷への出前もあった。春にはちらしを携えて花見遊山に興じる下町の旦那衆もいた。芝居見物の幕間に、「㐂寿司」のちらしを持ち込む人は今だっている。とにかく、「㐂寿司」のそれは蓋を開けた途端、思わず「わっ」と小さな歓声が口を突いて出てしまうほど美しく、華やかだ。それでいて、老舗ならではの風格も漂う。

「下の酢飯が見えないように、大ぶりに切ってぎっしり詰めるんです。先代は『余白をつくるな』が口癖でした。出前を想定しているので、そうしないと届けた先で蓋を開けた時に、せっかくの盛り付けが台無しになってしまうんです。美しく盛り込むには数をこなすしかありません」

しっとりとだしをたっぷり含んだ玉子、かまぼこ、椎茸煮といった“トメ”の種から並べていく。
続いて、光物や白身、蛸を。酢飯が見えないようきっちり詰めながらも、どの種も見えるように詰めていく。
おぼろは、車海老の握りに挟むおぼろと、鮮やかな黄色の黄身おぼろの2種。
しっかり仕込んだツメを、穴子と煮いかに刷毛で一塗り、二塗り。
しっかり厚みのあるマグロの赤身は別添えに。時季により、鰹やかじきが登場することもある。添えられたわさびと醤油でいただこう。
お重がぐっと華やかになる車海老の子供“才巻き海老”。甘味をたたえた柔らかい身は格別のおいしさ。
仕上げに筋子を置いて完成となる。「㐂寿司」では、いくらがお目見えするのは限られた時季だけ。この筋子の握りもまた美味なり。

これだけの種が入ったちらしは、昼のお決まりの「にぎり」と同じ値段。この四半世紀、据え置きだ。これなら給料日前でも安心して注文できる。
何度か値上げの話が持ち上がったというが、先代は若い人でも食べることができる値段にこだわったという。
一浩さんは言う。
「現在の形は先代がつくったものだと思います。本当であればもっと高くてもいいんでしょうが、そこは江戸っ子の意地ですよね。マグロも握りで使うものと同じ、赤身のど真ん中を分厚く切って三切れ入れます。季節によって鰹やかじきを使うこともあります」

ちらしの注文が入る。手の空いている職人がかんぴょうとがりを刻み、酢飯に混ぜてもみ海苔を振り、ちらしの土台をつくる。そして、そこにまるで波が吹き寄せるように、大ぶりに切った種を大胆に盛り付けてゆく。これが「吹き寄せ」と呼ばれる江戸前のちらし鮨の流儀だ。品書きには「ちらし」と並んで「バラちらし」もある。種をバラバラに細かく切って酢飯に混ぜ込んだものだ。こちらは、あらかじめ生の魚に醤油で味付けをしているため花柳界では好まれた。けれども、江戸前のちらしといえば「吹き寄せ」が主流なのだという。

吹き寄せちらし
こちらが“吹き寄せちらし”の完成形。酢飯は見えずとも、すべての種が見える盛り込みは圧巻の美しさ。

「昔は小上がりに陣取って、数人でちらしを注文される方もおられました。その時は出前用の桶に盛り付けて、一気に出すんです。この場合、お客様が座る位置を考慮してどこから箸をつけても均等になるように、すべての種を対角線上に盛り込むんです。下町ならではの洒落た旦那の遊びですね」

ちらしを差し出す一浩さん
「はい、どうぞ!」と完成したばかりのちらしを差し出す一浩さん。いまも涼しい季節に、ご近所に限っては配達もする。「なじみのお客様のご要望ですから」と笑ってのける姿に、老舗の懐の深さを感じさせられる。

「㐂寿司」のカウンターに陣取り、あらためてちらしを食べてみると、しみじみ江戸前の仕事の奥深さを識る。江戸前の本流をゆくマグロや煮穴子はもちろん、ちらしを彩るかんぴょうやがり、たまり漬けなどの名脇役があってこそ、江戸前を継承する鮨屋が成り立っているのだ。下町の鮨屋の底力がここにある。

――つづく。

店舗情報店舗情報

㐂寿司
  • 【住所】東京都中央区日本橋人形町2-7-13
  • 【電話番号】03-3666-1682
  • 【営業時間】11:45〜14:30、17:00〜21:30
  • 【定休日】日曜、祝日
  • 【アクセス】東京メトロ「人形町駅」より2分

文:中原一歩 写真:岡本寿

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中原 一歩(ノンフィクション作家)

1977年、佐賀生まれ。地方の鮨屋をめぐる旅鮨がライフワーク。著書に『最後の職人 池波正太郎が愛した近藤文夫』(講談社)、『私が死んでもレシピは残る 小林カツ代伝』(文藝春秋)など。現在、追いかけているテーマは「鮪」。鮪漁業のメッカ“津軽海峡”で漁船に乗って取材を続けている。豊洲市場には毎週のように通う。いつか遠洋漁業の鮪船に乗り、大西洋に繰り出すことが夢。