蒲郡では名の知れた「艶歌鮨」。一代で築き上げて、もうすぐ50年。歴史がある。暖簾をくぐるには、それなりの予算が必要だ。三河湾の魚介を揃えている。高級店としての矜持がある。店に入ったら、まず見てほしい。壁にかかる大将の田中実さんがしたためた名言が踊る日めくりカレンダーを。含蓄がある。第2回目は「艶歌鮨」の来し方を。
大将は苦労人だ。蒲郡市内の中学校を卒業してからすぐに働き始め、19歳で屋台「艶歌」を出し、21歳のときに「艶歌鮨」を開業した。
「本当は役者になりたかった。名古屋でオーディションを受けて、東京に呼ばれることになった。でもな、役者だけはやめてくれとおふくろから頼まれて思いとどまっただ。オレの親父は旅芸人で、生き別れになったおふくろは苦労したんだな」
兄と一緒に大工になることを目指したが、「飽き性」の大将にはマンションの部屋を同じようにつくり続ける仕事は向いていなかった。大工を辞め、地元の先輩に紹介してもらった和食店での修業に入る。
「親方はドおそろしい顔をしているけれどいい人でな。10人ぐらいいた若い衆の中でオレが一番かわいがってもらったよ。役者も料理屋も同じ水商売。オレには合っていた、ということだな」
この修行時代に、大将の人生訓のひとつが生まれる。「がんばって疲れても あの人の為、この人の為と思うと 又、力がわいて来るよ」。
「親方がかわいがってくれるもんで、オレも一所懸命になった。体がボロボロになるまで勝負してやろう、と。店が閉まってから夜中の2時頃までかかって掃除をして風呂に入って寝るだろ。親方は朝5時起きで名古屋の市場に仕入れに行く。誘われたらいつでもハイッと返事してお供したよ。寝る暇なんてなかった」
店にも一番早くに出て、大工時代に覚えた刃物の砥ぎ方で包丁研ぎを済ませた。そんな若者を親方が可愛く思うのは当然だろう。
短期間だけど濃密だった修業時代。それが大将の現在をしっかりと支えている。
「ヨシ、煮魚ができた。みんなに出すぞ」
修行の話を聞いている間に、大将に勧められて注文しておいた魚が煮えたらしい。地元の西浦漁港からあがったシロムツ。甘すぎず、魚の旨さがよくわかる上品な味付けだ。これはビールではなく日本酒が合いそうだなあ。
「酒か。おーい。お銚子~!」
すかさず厨房の奥に声をかける大将。「艶歌鮨」で日本酒と言えば「白鷹」の燗に決まっている。しばらくビールを飲みながら待っていると、妻の恵子さんが熱々につけて出してくれる。ちょっと甘めの白鷹がなぜかキリッとした味わいに感じる。何とも旨い。煮魚。白鷹。煮魚。白鷹。止まらない。酔いが回ると、大将の人生訓がますます心地良く響く。
「若い頃っちゅうのは、木にたとえれば根っこみたいなものだな。人の忠告に聞く耳をちゃんと持って、慢心せず、きっちりと丁寧な仕事をすれば、太くて深い根を張れる。丁寧な仕事っていうのはな、頼んでくれた相手に二度手間をかけさせない仕事だな。最初はゆっくりでもいい。やっているうちに少しずつ速くなるから。若い頃にいい根を張れると、いい幹と枝ができて、立派な花を咲かせて、しっかりとした実をつけることができる」
大将には「親方に喜んでもらう」ことのほかにも心の支えがあった。釘が壁から飛び出しているようなボロい借家に住みながら必死で兄と自分を育ててくれた母親と祖母に孝行をする、という目標だ。
「24歳のときに兄貴と一緒に家を建てることができたよ。日のあたる家でな。おふくろが働いている間にオレたちの面倒をみてくれたおばあちゃんはずいぶん喜んでくれたよ」
30歳のときに現在の場所にお店を構えた。大将は2018年に古希を迎えたので40年も前の話になる。
「あの頃が糸偏のピークだったな」
糸偏とは、繊維関係の会社全般を指す。蒲郡が位置する三河地方はかつて繊維産業で盛えた。時代の移り変わりとともに自動車や機械関連に産業の主役の座を明け渡した現在でも、蒲郡はカーテン生地や船のロープでは全国有数の産地だ。競艇場で有名な土地でもある。
今でも酒好きで、常連客とカウンター越しに飲み交わすこともある大将。当時は毎晩5、6合の日本酒を飲んでいたと明かす。
「ビールなら6、7本だな。あるとき、競艇帰りの客が店にある祝い事用の大きな湯呑を見つけてオレに言っただ。それになみなみに注いだビールを飲み干したら勘定を倍払ってやる、とな。楽勝じゃねえかと思ったね。3本半分のビールを一気に飲み干した。ハイ、6万円ってね。さすがにその後は腹が重くてしばらく動けんかったよ」
昭和50年代。大将も若かった。「艶歌鮨」は元気で猥雑で華やかな蒲郡を象徴するような店だったのだ。
大将はたくさんしゃべって喉が渇いたらしい。嬉しそうな顔で酒杯をカウンター越しに出している。はい、どうぞ。
「くぅ~、しみるね。おーい、お銚子のおかわり!」
このへんから急速に打ち解け始め、大将を含めた酒盛りの様相になる。客としては特別扱いをしてもらっているようで嬉しい。
ただし、大将は仕事を決して忘れない。酔いすぎる前に鮨を食べたいとお願いすると、「オウ、わかった」とさっそく準備を始めてくれる。
「艶歌鮨」は「糸偏」の退潮後も各業界の接待場所として利用されて繁盛した。毎晩のように客席が埋まり、トロなどの高級ネタから先に売れていくような状況が続く。一時期は2階もあって忙しくしていた。大将が最も警戒している「慢心」があったのかもしれない。カウンター席の常連客から厳しい感想を言われたという。
「今日は盛況でいいな。1年に1度だけの客を迎えるために、オレたち常連をほっぽり出して」
こんなことをしていちゃイカンと大将は猛省する。常連客は自分と会話しながら鮨を食べるのを楽しみにやって来てくれるのだ。それをないがしろにしてお金を儲けているようでは、いずれ足元をすくわれるだろう。大将は2階席をつぶして住居にし、若い衆は独立させた。現在は、恵子さんと長女の幸恵さんだけに手伝ってもらっている。
――つづく。
「艶歌鮨」のある愛知県蒲郡市。ぜひ足を運んでほしい、蒲郡ならではの名所を紹介します。第2回目は1962年から営業を続ける小さな町の水族館。小ささでは日本で4番目なんだとか。なんだか微妙な順位を誇るけれど、飼育員たちの志は日本一も言っていい「竹島水族館」。
かつては閉館寸前だった「竹島水族館」。2011年に手づくり感いっぱいの運営に切り替えてからは、年間入館者数が3倍超になるV字回復を遂げ、休日ともなると入館待ちの行列ができるほどになった。その秘密は職員たちの「手書きPOP」に代表される企画力とアットホームさ。「おいしそうにみえるじゃない にんげんだもの」。こんな手書きPOPが水槽に貼られ、魚を食べるということに言及したりもする。アシカのショーは必見。ちなみに深海生物の展示数は日本一。若き飼育員たちの奮闘を目の当たりにしてほしい。
文:大宮冬洋 写真:キッチンミノル