蒲郡では名の知れた「艶歌鮨」。一代で築き上げて、もうすぐ50年。歴史がある。暖簾をくぐるには、それなりの予算が必要だ。三河湾の魚介を揃えている。高級店としての矜持がある。店に入ったら、まず見てほしい。壁にかかる大将の田中実さんがしたためた名言が踊る日めくりカレンダーを。含蓄がある。第1回目は「艶歌鮨」の愉しみ方を。
義理の父の還暦祝いをしたいと思い立ったのは2014年の正月だった。僕はその2年前に妻と結婚し、東京から愛知県蒲郡市に移り住んだ。低い山々と静かな三河湾に囲まれた島っぽい雰囲気の温暖な土地だ。妻の実家は山向こうの西尾市にあり、漁師町で生まれ育った義父はそこで家業の工場を経営している。
蒲郡駅前でコーヒーショップを営む同世代の友人に紹介してもらったのが、駅から徒歩15分ほどかかる「艶歌(えんか)鮨」。市内では一番の高級鮨店だという。はっきり言って、一見客が入りやすい店構えではない。でも、あれこれ注文してお酒を飲んでも1万3,000円ぐらいで足りると聞いた。それならば僕と妻の小遣いを合わせれば、両親にご馳走してあげられるだろう。
暖簾をくぐると、清潔さそのものの店内が目に飛び込んできた。壁のタイルまでピカピカに磨き抜かれてあり、隅にも埃ひとつ落ちていない。カウンターの向こうにはねじり鉢巻き姿の大将がいる。田中実さん。にっこり笑って迎え入れてくれた。
「オウ、いらっしゃい!」
正面の壁に「煮魚」「ねぎま鍋」などと書かれた木札がかかっているだけで、値段入りのメニュー表などはない。慣れていない僕はどうやって注文したらいいのかわからずに、義父にリードしてもらった記憶がある。
あれから5年。大将を慕って集まってくる常連客とも少しずつ言葉を交わせるようになった。製造業や病院などを経営する自営業者や会社の重役が多い。店の中では、みんな子供のような屈託のない表情で笑っている。普段は誰にも甘えられない立場の人々だ。気楽に接してくれる大将から、ときには励まされたり叱られたりするのが心地いいのだと思う。
「ここは商売で成功した人たちの憩いの場なんだね」
妻はこんな表現をする。彼女は父親から家業を継いだばかり。僕はフリーライターになって17年が経つが成功とはほど遠い。だからこそ、夫婦で「艶歌鮨」にできるだけ通って、大将や常連客から良い影響を受けたいと思う。
大将によれば、「艶歌鮨」では自分が好きなように過ごせばいいらしい。鮨をお任せで10貫ぐらい注文してさっと食べて帰ってもいいし、ビールをゆっくり飲みながら大将に話しかけて、好みのおつまみをつくってもらってもいいのだ。
大将は優しく教えてくれた。
「鮨は食の王道だぞ。カウンターに座って自分の好きなような食べ方ができるのは一番の贅沢だな。わからんことは素直に聞けばいい。予算がないなら最初からそう言え。5,000円なら5,000円で考えて出してやるから」
目の前に並ぶネタを見て、「これはなんていう魚ですか?どうやって食べるのがいいですか?」と質問しながら食べるのは確かに楽しい。
大将はこんな「昔話」も聞かせてくれる。
「昔はな、玉(ギョク。玉子焼きの握り)をまず頼んで、それだけで帰る粋な客がいたんだ。おたくは甘口ですね、私は辛口が好きなのでこれでご無礼します、とな」
玉子焼きの味で料理全体の味を推察するのだ。確かにカッコいいけれど、僕は甘口でも辛口でもおいしければ構わない。そんな客が無理に玉子から注文するのはかえって野暮だろう。
「頼まれない限りは最初から玉は出さない。腹が膨れちゃうからな」
「艶歌鮨」の料理は、大将によれば「このへんにしては辛口」。愛知県は甘い味付けの料理が多いが、「艶歌鮨」は煮物でも甘すぎない。ガリもほどよく塩辛い。甘酢を使っていないのだ。
「甘いと口直しにならん。うちのガリは塩漬けだ。隠し味に梅酢を使っている。酒を飲む人には塩辛いガリのほうがいいだろう。ヨシ、刺身をそこに出すぞ」
話しながらも大将の手はきびきびと動き、カウンター越しに美しい刺盛を出してくれる。そういえば、カウンター前にある水場は何ですか?
「指洗いだ。いま、こういう演出をしている店は少ないな。おい、汚ねえ指で洗うなよ。水が汚れるからな」
それじゃ、指洗いの意味がないんじゃ、と思って大将の顔を見ると、目が笑っている。後半は冗談なのだ。
大将が朝晩よく拭いて一点の曇りもないネタケースには、常に20種類ほどのネタが並んでいる。その7割ほどは三河湾で獲れる所謂「三河前」。初めて蒲郡に訪れた場合は、この店で三河前の話を聞きながら味わうのもいいだろう。
三河湾は浅蜊、赤貝、鳥貝、平貝、西貝などの貝類が全国的に有名だ。平目、穴子、鯛、鯵、車海老、渡り蟹、高足蟹なども地元の漁港で調達できるらしい。
ちなみに西貝は栄螺に似た貝で、身が分厚くて歯ごたえがあり味も強めだ。僕は栄螺や鮑よりもおいしく感じる。高足蟹は深海生物であり、大きなものは4mにもなる。蒲郡は深海魚漁が盛んなので、生きたまま手に入りやすい。
「魚介類はなるたけ地元のものを揃えるようにしている。鮪と雲丹はこのへんにはないけどな」
大将は毎朝4時起きで漁港に出かけ、魚を食べ慣れた常連客でも喜ぶような魚介類を吟味して仕入れている。多少、値が張るのは覚悟の上だ。
「昔から蒲郡の魚は一文高い、と言われてるだ。客も地元の魚を食べたがるな」
刺盛に添えられた大根はかつらむきではなく、短冊切り。甘味があっておいしい大根を出しているのに、かつらむきでは口元が汚れるのを気にする女性客が食べてくれないことが多い。そこで大将が食べやすい工夫をした。
僕にもようやくわかってきた。「艶歌鮨」は回転鮨とは根本的に違う。配慮が行き届いた店内と料理を味わいながら、大将とのコミュニケーションを楽しむ場所なのだ。
「艶歌鮨」の場合は、自己紹介をするといろいろ質問してくれるし、そのうえで経験豊富な大将の人生訓を聞くのが面白い。客が社長や政治家でも大将の言葉遣いは変わらない。いつでもざっくばらんな三河弁だ。ただし、一言添えることも忘れない。
「オレはものの言い方が雑だ。でも、このほうが親しみがわくだろ。オレは医者にもよく言う。ドクターらしいドクターになっちゃいかんぞ、と。親しみやすくて、患者が何でも言えるような人にならにゃイカン」
――つづく。
「艶歌鮨」のある愛知県蒲郡市。ぜひ足を運んでほしい、蒲郡ならではの名所を紹介します。第1回目は地元に根をはって、もうすぐ半世紀を迎える個性溢れる食品スーパー「サンヨネ蒲郡店」。
東三河地域で5店舗を展開している食品スーパーの「サンヨネ」。中でも一番広い蒲郡店の評判はすこぶる高い。品揃えは豊富かつ新鮮、価格は良心的。プライベートブランドも充実している。粗利益の50%を社員に還元する制度を取っていることもあって、社員のモチベーションもすこぶる高い。このスーパーがあるから郊外から蒲郡駅前に引っ越して来たという家族もいるほどの魅力がある。近くにあったら、心強いスーパーであることは間違いない。ちなみに、スーパーでありながら閉店時間は19時。社員が家族一緒に夕飯を食べることができるようにという配慮からだという。
文:大宮冬洋 写真:キッチンミノル