家でも仕事場でも、ずっと一緒。中尾年秀さんと敦子さんは、夫婦で店に立ち続けている。ふたりはどんな心持ちなんだろうか。東京・神宮前の路地裏に佇むカフェレストラン「J-COOK」の物語。温かなスープと一緒に綴ります。
東京メトロの外苑前駅を降りて、国道246号からキラー通りをぶらぶら歩く。ワタリウム美術館を過ぎ、数年前に新しくできた巨大なタワーマンションとナチュラルローソンの角を左に入ってすぐ、古びたマンションの半地下に「J-COOK」はある。
ここは、助けを欲したときに、駆け込みたくなる店である。
8年前に関西から東京へ引っ越し、なにかにつけて心細かった頃、この店を知って安堵した。“東京にも、こんな店があるんだ”と思った。
初めて訪れたのは取材だったが、取材依頼の電話越しで、こちらの本名をフルネームで名乗ると、「まあ、私と一字違いですね」とほがらかに返してくださったのが、中尾敦子さんだった。
あとになって考えたら、漢字にしても平仮名にしても一字違いではなかったのだけど、その屈託のない軽やかな応対に、まだ会ってもいないうちから「中尾敦子さん」という人が好きになった。
対して、店を訪れるとカウンターの奥に隠れた厨房から、つくりたての“ウナギのピラフ”を手に登場した敦子さんの夫の中尾年秀さんは、ちょっと怖かった。チェックのシャツにエプロンというカジュアルな出で立ちで、敦子さんと同じようににこにこ笑顔ではあるけれど、隠しきれない料理人の矜持のようなものが、ひしひしと感じられた。
なぜウナギの蒲焼きをピラフに仕立てたのかを問うと、「うな重以外の食べ方もいいでしょ」と笑い、スッと厨房に戻っていった。
あとで敦子さんがすらすらと話してくれたのは、年秀さんは、日本の西洋料理の草分け、荒田勇作氏のもとで学び、フランスやスイスで働いた経験もある料理人だということ。1987年にここでカフェレストランを始める前は、3年ほど銀座で店を切り盛りしていたこと。当時は銀座に比べて、どれだけ神宮前が田舎だったかなど、東京初心者の私はひたすら想像することしかできなかったが、「巷にカフェというものがなかった時代です」という敦子さんの言葉には、自分の子ども時代を想い出して、そうだろうなと思った。
ふたりの人柄と好きなものが詰め込まれた空間は、センスがいいとしかいいようがないくらいかっこよく、年月を経てきたものが醸し出すまろやかさがあった。
建物の構造もちょっとユニークで、半地下へと続く緩やかなスロープ状のエントランス、二重のガラス扉、その向こうにはサンルームのように明るいテーブル席、突き当たりにはカウンターがある。ところが、カウンターの前あたりまで進むと、左手の奥まったところにもうひとつフロアがあることに気づき、心を鷲掴みにされた。昼間から暗く、静かな部屋。
「もともと奥のフロアだけ借りる予定が、大家さんから手前の駐車場スペースも一緒に借りてほしいと言われてね。駐車場だから屋根もなくて、半透明の天井をつけて、床には大理石を貼りました」
壁には、ジョン・コルトレーン、コールマン・ホーキンス、ヴァン・モリソン……ふたりが好きだというミュージシャンのポートレイトやアナログジャケット、映画のポスターが飾られ、ラックにはCDにカセットテープ。
メニューを見ると、スープが10種以上もある。スープ専門店でもないのになぜ?
取材を終え、その日の夜、さっそくお邪魔した。敦子さんに「おいしいですよ」と飄々とした感じで薦められ、名物という“ガンボスープ”と、“しいたけとお米のクリームスープ”をいただいた。一緒に行った人は、“ハンガリー鶏肉カレー”と“仔羊肉カレー”で悩んだ末、仔羊肉のカレーをがつがつ食べていた。
この日、敦子さんは唐草模様のエプロンをつけていて、「これね、手づくりなんですよ」とうれしそうに教えてくれた。
つい先日、いつものようにお店に伺うと、8年前のあの日と同じ唐草模様のエプロンをつけた敦子さんがいた。店内には、ロバート・グラスパーの新バンド「R+R=NOW」がかかっていた。
――つづく。
文:西市鈴 写真:阪本勇