「㐂寿司」の敷居はけっして低くはない。けれども、一歩足を踏み入れれば、そこは緊張感を強いることなく、気ままな空間であることを知る。「㐂寿司」の佇まいや設えは日本人のDNAに訴えるものがある。そして何よりも、鮨を食べるという欲望に自由に浸れる場所が、ずっとずっと人形町にあるという奇跡に、心が弾む。
ガラガラッ。「㐂寿司」の暖簾をくぐり、曇り硝子の引き戸をあけると、ひと昔前の下町にタイムトリップしたような別世界が出現する。どっしりとした風格のある日本家屋。磨き上げられた檜のカウンター。昔ながらのガラス製のネタケース。つけ台の正面には季節の鮨種が書かれた木札が掲げられている。こんな風情ある鮨屋を東京で見かけることは、いまはもうほとんどなくなったーー。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました。お茶になさいますか。それともお酒にされますか」
客が席に着いた頃合いを見計らって、四代目主人である油井一浩さんの声がかかる。つい「お酒......」と口と滑らせてしまうのも、この店の醸す風情があればこそ。今でこそ東京の鮨屋は“おまかせ”一辺倒だが、「㐂寿司」ではガラスケースに並んだ季節のネタを見ながら、自由に注文できる喜びがある。迷った挙句、カウンター越しに立つ一浩さんに “私だけの献立”を告げた。
「少し刺身をもらえますか。握りは小肌、鮪、平目、墨烏賊、煮蛤、穴子をください。〆は玉子と干瓢巻きでお願いします」
鮨屋における主導権は店ではなく客の側にある。かつての鮨屋はそれが当たり前だった。当日の予算や腹の空き具合、酒の量などを勘案して、つまみと鮨の量を加減する。自分の食べる鮨は自分が決めるのが気取らない下町の鮨屋だと一浩さんは笑う。
「お酒を召し上がらなくても、お茶と鮨だけでも結構ですよ。夜は一人前が握り六貫と巻物。昼は同じ内容、同じ値段ですが、握りが八貫つきます。近所で働く人や若い人に少しでもたくさん食べてもらおうという、先代の言いつけなんです。足りなかったら、ネタケースを見ながら、好きなものを一貫から注文できます」
「㐂寿司」には実に幅広い世代の客がやってくる。近くに明治座があるので、芝居見物の前にひとつ、ふたつ、好きな握りをつまんで、お茶を飲んでおしまいという老夫婦もいれば、暖簾がかかったばかりの早い時間帯に一人でやってきて、燗酒をチビリとやりながら、鮨屋らしいつまみを楽しんだ後に、握りで〆る粋な女性もいる。ホテルで紹介されたと地図を片手にやってくる外国人観光客や、銀座や日本橋で働く若い料理人の姿も見かける。
「㐂寿司」の創業は明治後期にまでさかのぼる。当初、店は東京・柳橋(現在の東日本橋)にあった。初代の名前は油井㐂太郎。その名前の一文字をとって屋号を「㐂寿司」とした。初代は江戸前鮨の開祖と呼ばれる「与兵衛鮨」で修業をした人物。この㐂太郎のもとで修業し、柳橋と並び称される色街で「元吉原」と呼ばれていた日本橋芳町で鮨屋を始めたのが一浩さんの曽祖父。江戸由来の歴史ある街の名前は、昭和52年の町名改正で、日本橋人形町となる。これをきっかけに多くの芸妓や料亭が表通りから姿を消したが、「㐂寿司」の暖簾は四代にわたって家業で守られ現在に至る。
店を語る上で欠かすことのできない人物がいる。三代目主人であり、一浩さんの父である隆一さんだ。隆一さんは東京の鮨職人なら誰でも知っている名職人で、みんなの「親方」だった。
「魚河岸で若い衆に声をかけられると、急いでいても必ず立ち止まって言葉を交わすんです。存在感があるというか、いるだけでパッと場が明るくなる。父は、技術はいうまでもなく、こんな鮨屋の主人になりたいなと若い職人に思わせる憧れの存在でしたし、息子の私もそう思っていました」
粋で洒脱。店では「旦那」と呼ばれていた。三代目ほど下町の鮨屋然とした旦那をほかに見たことがない。「人形町に㐂寿司あり」との名声は間違いなく、隆一さんの技量と人柄によるものだ。
まだ人形町が「よし町」と呼ばれ、東京を代表する花街だった頃、毎日のように出前の注文が入った。漆塗りの桶に季節のネタを盛り込んでいくのだが、完成したその盛り込みの美しさは色街の粋と華やぎ、そのものだった。
そんな隆一さんが急逝したのが2018年5月。あと5年で人形町に店を構えて100年。その日までつけ場に立つことが本人を含め家族の目標だったが、その願いは叶わなかった。
「㐂寿司」の暖簾は、こうして四代目の一浩さんに受け継がれた。今、店では一浩さんを筆頭に、弟の厚二さん、30年ほど店に勤めている職人の山岸利光さん、修業13年目の安井直樹さんが交代で鮨を握っている。
店を継ぐということは、先達が確立した江戸前の古い仕事を守り、流行り廃りに流されずに淡々と鮨を握ることだと、一浩さんは考えている。
「旦那や大旦那が店にとっての一番大事な幹の部分をつくってくれました。残された僕らは時代にあった枝葉をどうつけるかに徹すればいい。その意味では本当に楽をさせてもらっていると思います」
そもそも江戸前の仕事とは、東京湾でとれた新鮮な魚介を、ただ切りっぱなしで使うのではなく、あえて塩や酢で「〆る」。熱を加えて「煮る」。醤油や煮汁に「漬ける」などといった、ひと手間を施すことで、魚の生臭さを払拭し、日持ちをよくさせ、魚の旨味をより引き出す技術として誕生した。つまり、冷凍技術や輸送手段に恵まれていなかった時代の職人が、必要に迫られて考案した知恵そのものなのだ。それゆえに、時代の変遷とともに鮨屋からその姿を消した仕事や慣習も数多くある。
今日からスタートした『「㐂寿司」の365日。』は、江戸前の鮨の伝統を今に伝える㐂寿司の1年に密着し、その旬の鮨種とその仕事を紹介しようという寸法だ。食べてから読んでも、読んでから食べても、どちらでもいい。まるで月替わりのカレンダーをめくるように季節のネタが登場する。さあ、一貫の鮨の向こう側を知る旅に出かけよう。