「おにぎりの本当のおいしさってなんだろう」。その答えを求めて写真家・阪本勇は旅に出る。シリーズ第2回目は、週末は東京のマイホームで家族5人で過ごす、静岡に単身赴任中のメンチこと、久米康二郎さんに会いに行った。
メンチこと、久米康二郎とは高校時代、同じクラスになったのをきっかけに仲良くなった。
メンチは小学生のとき、地元豊中の少年野球チーム、大池インディアンズに入っていた。強豪だった大池インディアンズでは、練習に行くときに持たされるお弁当の内容までもがチーム内で決められていた。おにぎり2個と、メザシ2匹。きっと体づくりのことを考えてのことだろうけど、子どもの頃のメンチは、苦いメザシが嫌で嫌で仕方がなかった。お弁当の時間になると、毎回メザシの苦さをおにぎりでごまかして食べていた。
小学5年生になったとき、あるチームメイトのお弁当に、メザシではないもっと大きな魚が2匹入っていて不思議に思った。「何なんそれ?」と聞くと、「知らんかったん?シシャモはありやねんで」と言われて衝撃を受けた。家に帰ってすぐ親に言い、次の日からさっそくシシャモに変えてもらった。メザシの苦さをおにぎりでごまかす日々が終わった。
高校ではアメフト部に入った。入学した箕面高校のアメフト部はレベルが高く、全国大会を目指していたが、結局大阪ベスト4で終わった。一浪して入学した法政大学でも、やはりアメフト部に入った。私立大学でアメフトをやるような同級生は金銭的に余裕がある家庭が多く、練習を終えるとみんなで毎晩外食をした。ただでさえアメフトはお金がかかるのに、とりたてて裕福ともいえないメンチは、次第に金銭的についていけなくなった。仕送りを増やしてくれと親に言うわけにもいかなかったので、外食の回数を減らして自炊をするようになった。どうすれば安くすむか、どうすれば食材が長持ちするか、どうすれば店よりおいしいものをつくれるか、そう工夫しているうちに料理がどんどん楽しくなっていった。
アメフト部のメンチは、体づくりのため練習後にプロテインを摂取することを義務づけられていた。立川に住んでいたメンチの家に遊びに行ったとき、プロテインの入ったシェイカーにコーヒー牛乳を注いでいたので、「プロテインって牛乳で飲むもんちゃうん?」と聞くと、「牛乳嫌いやから、コーヒー牛乳でごまかしてるねん」と、シェイカーを激しく振っていた。
プロテインを飲み終わったメンチが「何食べる?」と聞いてきたので、“何食べに行く?”という意味かと思った僕は「親子丼」と答えた。するとメンチは宙を眺めて少しの間考え、ベランダに出て野菜を手にして戻ってきた。そのまま台所に向かい、冷凍庫に保存してある小分けにされた鶏肉で、親子丼をつくりだした。
学生時代、僕も周りの友人も、家でごはんをつくるとなると卵かけごはんか、スパゲッティーを茹でてレトルトソースをかける程度の、腹をふくらますことが目的の料理しかつくったことがなかった。なので、あれよあれよと手際よくつくられて出てきた親子丼を見て驚き「これ、店のみたいやん!」と言うと、「あほか、店のよりうまいわ」と返された。自信満々なだけあって、メンチがつくったその親子丼は本当においしかった。
大学でもアメフトを頑張った結果、学生関東代表にまで選ばれたものの、就職活動では厳しい扱いを受けた。メンチが就職活動をしている頃、僕は大学を中退し、写真家のアシスタントをしながら、夜は居酒屋でアルバイトをしていた。ある日、アルバイトが終わって深夜に家に帰ると、ぐでんぐでんに酔っ払ったメンチがスーツ姿のまま、僕の部屋の畳の上で大の字になって寝ていた。声をかけると「くそぉ!俺はすべてを否定されたー!」と酔っ払いの咆哮。企業の面接で、自分がアメフトに打ち込んできた学生生活を容赦なく一蹴されたようだった。しかしその後、メンチはアメフトで鍛えた根性で就職活動を戦い抜き、今は誰もが聞いたことがある大きな企業に勤めている。箕面高校時代の同級生のらっきょさん(真由さん)と結婚し、3人の子どもにも恵まれた。
学生時代の自炊をきっかけに、さらに料理が好きになっていたメンチは、大阪勤務時代、休みの日は豊南市場に通い詰めた。独学で勉強し、うなぎまで捌けるようになった。ついにはふぐ調理師免許まで取ろうとして試験の申し込みをしたが、東京への転勤が決まって結局試験は受けていない。
今は東京に家族を残して静岡に単身赴任している。会社からは1ヶ月に3往復分の新幹線代しか出ないけど、毎週末家族に会いに東京へ帰る。金曜日の夜に東京に帰ってきて、土曜日の朝早く起きて築地へ行く。そして土日の昼、夜はメンチがごはんをつくる。
家で待っていてもつまらないから、らっきょさんも子どもたちもついて来るようになり、築地へ行くのが毎週末のイベントになった。朝9時には家を出るので、休みで遅く起きてくる子どもたちは車の中で朝ごはんを食べる。そのためのおにぎりを、らっきょさんがつくる。
通い出した当初、豊南市場とは違い、築地ではよそもん扱いを受けた。毎週、買ったもののグラムや値段を記入して行くうちに相場がわかってきて、ボラれていることに気づいた。ボラれたとわかった店には二度と行かず、1年かけて通って信用を築き、今では場内を歩くと「久米さん、久米さん」と声をかけられるまでになった。三男のハルトはしたたかで、会計時に店の人に寄っていって飴をもらう。子どもたちにとってはそれも楽しみになっているようだ。
らっきょさんが子どものころ、お母さんがつくってくれたのは、昆布やらタラコやら、なんでも一緒くたに入れてしまうような豪快なおにぎりだった。なので毎週末メンチがつくる繊細な料理がうれしい。らっきょさんは特に、時々メンチがつくってくれる、ほぐした秋刀魚と、ミョウガ、紫蘇が入った混ぜごはんのおにぎりが大好きだという。
「できることなら小料理屋を開きたい」と話すメンチに、「これ、いつも言ってるねん」と、らっきょさんが笑った。
文・写真:阪本勇