
その町の住人が長く通う店こそ、愛される名店に違いない。dancyu2026年春号では、芦屋「メツゲライクスダ」楠田裕彦さんに、地元神戸と職場がある芦屋周辺の愛すべき店を案内してもらいました。
神戸・板宿。下町らしい風情が今も残るこの街に、「あやせ」はある。
店を切り盛りするのは、中国・大連出身の張セツコウさん。和食と中華という枠にとらわれず、故郷の味をベースにした料理を気軽な酒場スタイルで提供している。
「本場の味を知ってほしいんです」。その言葉通り、味わえるのは、日本で親しまれている中華料理とはひと味違う、大連の日常に寄り添う家庭料理だ。
「張さんの料理に惹かれるのは、発酵調味料の使い方ですね」。そう話すのは「メツゲライクスダ」の楠田裕彦さん。
大連料理は海に面した土地ならではの食文化を持ち、海鮮を生かした発酵調味料を巧みに使う。その奥行きある旨味に加え、野菜をたっぷり食べられることも、この店へ足を運ぶ理由の一つだという。



楠田さんお気に入りの一皿が「干し豆腐の野菜包み」。
細切りにした色とりどりの野菜を、干し豆腐で丁寧に包み、中華味噌を添えて食べる大連の定番料理だ。軽やかな食感と野菜の瑞々しさ、そして味噌のコクが心地よく重なり、食べ進めるほどに箸が止まらなくなる。
一方で「豆腐のエビ味噌煮込み」も大連の発酵文化を感じさせる一品。
豆腐やレタス、卵をやさしくまとめた一皿に、エビと塩だけで発酵させた蝦醤(シャージャン)が奥深い香りを添える。派手さはないが、じんわりと体にしみ渡るような味わいだ。



「締めには担々麺がマストですね」と楠田さん。実は張さんは、楠田さんも足繁く通う「アムアムホウ」で短期間修業した経験を持つ。その技術を生かした担々麺は、この店の隠れた人気メニューの一つでもある。
「料理はもちろんですが、この店は居心地がいいんです。我が家に帰ってきたような気持ちになれる」。楠田さんがそう話すように、「あやせ」の魅力は味だけではない。
張さんのあたたかな人柄と、肩ひじ張らずに過ごせる空気。そして、本場の家庭料理が持つやさしい力。
気づけばまた足を運びたくなる、そんな一軒が板宿にはある。


神戸市生まれ。ドイツ・フランスで修業後、鹿児島「クスダハム工房」を経て2004年、芦屋で独立。創業20年目となる24年、東京「麻布台ヒルズ」に新ブランドを出店。

文:船井香緒里 写真:福森クニヒロ