
2026年日本酒dancyu「出会えてよかった!心ふるえる酒」特集では、燗酒の魅力を少し違った目線で掘り下げました。“温めて飲む”という日本酒にとっては当然の手法が、日本国外や洋酒の世界から熱視線を浴びています。後編はワインバーで独自の燗酒を出す吉田岳史さん。燗酒でしかできない表現とは?
煌びやかな夜の街、赤坂にも知る人ぞ知る燗のエキスパートがいる。居酒屋の主でも燗つけ師でもない。練達のワイン党が聖地と仰ぐワインバー「エレヴァージュ サード」のオーナーソムリエ、吉田岳史さんだ。

秘密の小部屋のような店内は、壁一面のセラーを埋めるグランヴァンと、一升瓶の日本酒が同居する摩訶不思議な空間。コックコート姿でカウンターと厨房を行き来する吉田さんは、ワイン界隈では、独自の美意識に貫かれたサービングの流儀で知られる人物である。

たとえば、ワインをサーブする際は液体入りのグラスを左手に持ち、右手の拳の先を支点に添えてステムをゆっくり回す。よくあるスワリングとは似て非なる丹念で精緻な“洗礼”を経て、ワインの香りはモノトーンから暖色に一変。輪郭はふくよかに、余韻はより長く。まるで魔術のような一連の秘儀を、吉田さん自身は“調整”と呼ぶ。
「酸素を液体に練り込んで、香りを立体的に立ち上げるための作法のようなもの。ワイン文化はゴシック様式が基盤にあるので、天上に向かっていくイメージで。日本酒は土の文化だから下にいく。ワインとは異質の世界観なので、この“調整”は不要です」
いきなりの難解な比較文化論、からの超観念的な日本酒考。一瞬脳内バグが起きかけるが、ここはまだ序の口だ。

実は、吉田さんは和洋の古書や文献を自在に読み解き、酒と同じルーツの音楽や美術にも触れながら、テロワールを探求する学究の徒。日本酒研究歴は20年以上。先入観なしに端から飲み、琴線に触れる酒あれば産地を旅し、造り手の話を聞き、背景にある食や文化を肌で知ろうと試みるフィールドワークも欠かさない。なぜ、そこまでするのか。答えは明快かつシンプルだ。
「すべては最上の味わいを体験していただくために。お客様に感動を与えるのが私の仕事ですので」
そんなマエストロのお眼鏡に適う日本酒とは、いったい!?
酒選びでは「土地の風土や食文化に根差しているかどうかを何よりも重視する」と吉田さん。
「単体としてのおいしさ以上に、飲んだときにその地の風景や空気が浮かぶ酒、そこに行った感覚になれる酒が理想。これはワインを含む他の洋酒にも共通する条件ですが」。
燗酒では、その存在感が一層の説得力をもつという。
「そもそも燗酒という飲み方そのものが、魚中心の日本の食生活と結びついたもの。海の食材は体を冷やすものが多く、酒を温めて飲むのが理に適っていた。肉食中心の欧米にはない、日本独自の食文化です。加えて、燗酒にも土地土地の風土に即した嗜好がある。たとえば、冬の寒さが厳しい山陰では体が芯から温まる熱々燗が好まれ、無上のおいしさに感じられるように。文化的に正しいものは、無条件においしいのです」

さらに、「記憶をより鮮明に呼び覚まし、官能を揺さぶるのが燗のパワー」というのが吉田さんの持論である。わかりやすい例として挙げたのが、10年ほど前に旅先で偶然に出会った石川の地酒「春心」だ。「常温は地味だけれど燗でバチバチに発光する凄さ」に大興奮。
「飲むごとに浮かぶ北陸の海景色、肌を刺す冷気と空気の匂い、ガス海老やノドグロなど地の食材を呼ぶ引力に圧倒された」と話す。現在の店では常時3~4種類を揃えて熟成させ、名産のズワイ蟹などの地のものを添えて飛び切り燗で提供することが多い。

熟成といえば、吉田流を象徴する光景がもう一つ。日本酒の一升瓶の口に刺さったコルク栓だ。日本酒の王冠は隙間から空気が入りやすいため、酸化熟成が進みすぎないよう、購入後すぐにコルク栓に打ち直し、上からパラフィルムを巻いて密封性を高める念の入れよう。「ゆっくり熟成させないと、移りやすい飲み頃のピークを捉えきれない」というのが、その理由。「最高の瞬間はミリ単位でも逃すまじ」という、吉田さんの静かな気迫が伝わる。
これも、いわば「感動してもらう仕事」に欠かせない“調整”のうちということか。ワインバーだからこそ体験できる、こんな燗の楽しみもあるのだ。

文:堀越典子 撮影:長野陽一