
宝の剣。酒名のごとく冴えた切れ味が記憶に残る酒。飲むほどに旨くなる、豪快な男酒。その酒を醸す闘魂あふれる蔵元杜氏は、実に繊細で、緻密な男でもあった。土井鉄也、通称“土井テツ”。高みを目指し、30年前から日々、全力で酒造りに邁進している。本記事は「日本酒dancyu vol.1」(2025年2月6日発売)から特別公開中。
2026年2月5日に発売を予定している「日本酒dancyu vol.3」。
その発売にさきがけ、2025年に発売した「日本酒dancyu vol.1 ゴールデンエイジの日本酒」から、記事を一部抜粋してお届けします。

辛口の名酒、「宝剣」。飲み口はさらりと軽く、ぐーっと旨味が広がり、スパッと潔く切れる。見事な切れ味はまさに「宝の剣」だ。
“土井テツ”こと五代目蔵元で杜氏の土井鉄也さんのキャラも相まって、存在感ある“男酒”として熱烈に支持されている。
49歳で杜氏歴すでに29年目。だが筆者が初めて会った20年前は、「酒造りに出会ってなかったら、人生どうなってたかわからん」と生真面目に語る顔に、やんちゃな片鱗を覗かせていた。
土井さんは1975年8月、広島県呉市に蔵を構える宝剣酒造四代目の次男として生まれる。中学生の頃から度々警察のお世話になり、“宝剣の次男坊”と言えばワルの代名詞だった。
16歳でとうとう父から勘当を言い渡され、土木作業員に。18歳のときに中学の同窓生との結婚を決意し、婚姻届に保護者の印鑑をもらうために実家を訪ねたが、父は家に入れようともしなかった。母のとりなしで、家業を手伝うことを条件に勘当を解かれ、ようやく婚姻届に判を押してもらえた。
土井さんが家業に就いた94年当時、酒造りは安芸津杜氏(広島)と蔵人が行なっていた。造っていたのは醸造アルコールや糖類を添加した普通酒がほとんど。土井さんが生まれた75年をピークに製造量は下降の一途で経営は苦しく、95年から父とパート従業員で酒を造るようになる。土井さんは営業を担当するが、取引先と喧嘩になり、蔵に苦情が入ることもしばしばだった。

転機は97年、土井さん21歳の冬。父が脳梗塞で入院し、経験のない土井さんが酒造りをすることになる。
「パートのおばちゃんに、米どうやって炊くん?と聞いても、知らん言うて逃げよる。えらいことになったと思った」。事務所にあった『酒造教本』を見ると米は炊くのではなく、蒸すと書いてある。酒造りの“いろはのい”も知らなかったのだ。教本と首っ引きで一日20時間、酒造りに没頭。麹の温度が上がらず、深夜、衝動的にバリカンで頭を刈り上げた。「苦しゅうて、神頼みじゃった」。食事は喉を通らず、1週間で7kg体重を落とし、ふらふらになりながら、その冬は造り終えた。
酒造期が終わると、廃業を案じて、これまで以上に営業に気合を入れる。パンチパーマにピンストライプ柄のダブルスーツ、金のブレスレットをジャラジャラ鳴らし、酒販店に乗り込むが相手にされない。「それでも酒には自信があった」、そんな土井さんの慢心を打ち砕くショックな事件が起きる。
23歳のときに栃木県の酒販店が主催する酒の会に誘われ、他の蔵の酒を試飲して愕然とする。どの酒も明らかに自分の酒よりレベルが高かったのだ。
「僕の酒を利いてもらうのが恥ずかしゅうて、こっそり酒をテーブルの下に隠しました。地獄じゃった」
だが、レベルの低さに自分で気がついたことに光明を見出す。舌を鍛えて、蔵元や杜氏を対象とした「広島県きき酒競技会」に挑み、2年目の25歳で最年少優勝。その後も4回優勝している。負けん気が天賦の才を開花させたのだ。“栃木ショック”以降、先輩蔵元に教えを乞いながら、質を追求する路線に変更。ほぼすべてを純米造りに変えて、一切の営業活動をやめた。99年、新生「宝剣」を始動させたのである――。


文:山同敦子 撮影:エレファント・タカ