「十四代」が拓いた日本酒の新世界 ~十五代目・高木辰五郎さんの仕事と波紋~
【「十四代」物語】それぞれの酒で「天下を取る」ことを誓い合った学友――鹿児島県「富乃宝山」蔵元・西陽一郎さん その2(第18回)

【「十四代」物語】それぞれの酒で「天下を取る」ことを誓い合った学友――鹿児島県「富乃宝山」蔵元・西陽一郎さん その2(第18回)

日本酒「十四代」の誕生は1994年、芋焼酎「富乃宝山」は95年。どちらも二十代の若い蔵の跡継ぎが自らの手で生み出した新しい銘柄であり、それまでになかった新感覚の味わいで、酒業界に革命をもたらしたと言われる存在だ。前回に引き続き、日本酒蔵と芋焼酎蔵、学生時代に出会った2人の跡継ぎの交流で生まれた35年の物語をお送りする。(写真は2018年、共通の取引先である福島県の酒販店「泉屋」店主・佐藤広隆さん〈連載第5回、6回で物語を紹介〉50歳のバースデーパーティーで。楽しそうに肩を組む 高木顕統〈あきつな、2023年に辰五郎を襲名、左〉と西陽一郎さん。)

「高木さんには、家業を継承する意味を考えさせられました」

1994年3月に東京農業大学を卒業した西陽一郎さんは、4月に東京の酒類卸売業会社に就職し、メーカーからの仕入れや酒販店の営業を担当しながら忙しい日々を送っていた。かたや大学の先輩で、兄貴と慕う高木顕統さん(2023年辰五郎を襲名)は山形県村山市の家業、高木酒造の仕事に就き、93年から杜氏に代わって醸造責任者として現場で日本酒を造り始め、94年春に新しい銘柄「十四代」を発売した。東京と山形に離れた二人は、頻繁に電話で情報交換。学生時代は主に酒質について語り合っていたが、卒業後は流通の話題に切り替わったという。
西さんが働いて感じたのは、卸業はグロス(量)で勝負する業種ということだった。だが、自分が家業に就いたら、商品を総量・総額として捉える流通ではなく、造り手の想いがお客さんに伝わるような流通を中心にしていきたいという思いが強くなっていた。
高木さんは、家業に入る前に伊勢丹系列の高級スーパーの酒売り場を経験し、東京の地酒専門店と交流もあり、酒の流通に明るかった。西さんが相談すると高木さんは、「十四代」は卸を経由せず、地酒専門の小売り酒販店と特約店契約を結んで直接販売にするという。のちに西さんは高木さんに倣って、地酒専門店と付き合うようになり、そこから販路や人脈が広がっていくのだが、それは家業に就いてからのことだ。

3年間は酒類卸売業会社で働くつもりだった西さんだが、杜氏が怪我をして引退することになり、父の要請もあって1年で退社。95年に家業に就き、杜氏として自ら造ることを決意した。
自分が造る焼酎を全国の人々に知ってもらいたい。特に、焼酎を安酒と捉えている人や、普段飲まない人にも目を向けて欲しい。そのためにどんな焼酎を造るか。
その頃、都会で好まれていた本格焼酎は、減圧蒸留したあっさり味の麦焼酎だった。西酒造でも、芋を収穫する夏以外の時期は麦焼酎を造ってきたので、麦焼酎を造ることはできる。だが麦焼酎はもともと大分や壱岐の特産であり、鹿児島を主張できないと考えた。
「自分らしい焼酎をつきつめるには芋焼酎しかない。芋をテーマに焼酎の可能性を引き出し、常識にとらわれない芋焼酎で、僕の世界を確立してみせる。それがアキちゃんと誓い合った“焼酎で天下を取る”ことにつながると考えたんです」。

西酒造のシンボルマーク
西酒造のシンボルマーク。焼酎の銘柄名「宝山」の由来となった島津家の祈祷僧・宝山検校(ほうざんけんぎょう)が奏でた薩摩琵琶を中心に、サツマイモ、米、麦、葡萄など西酒造が酒造りに使う農作物を描いている(撮影は2023年7月、西酒造の東京事務所にて)。
ONTAKE(御岳)蒸留所のポットスチル(銅製の単式蒸留器)の前での西さん
ONTAKE(御岳)蒸留所のポットスチル(銅製の単式蒸留器)の前での西さん。蒸留器の形によってウイスキーのタイプは決まるとされるが、初留も再留もラインアームの角度を上向きに設計することで、フルーティーな香り、クリアーな飲み口を目指している(2023年、写真は西酒造提供)。

従来の蔵の横に、工房のような小さな蔵を建てて研究に没頭。めざしたのは、オンザロックで旨い清涼感のある芋焼酎だ。今ではロックで芋焼酎を飲むのは特別なことではないが、そのころの鹿児島では“だれやめ”(「疲れを止める」という意味合い)と称して、晩酌にゆるりとお湯割りを楽しむスタイルが一般的だった。
「旨味がたっぷりある芋焼酎は、お湯割りにすると柔らかみが出て、豚骨など鹿児島特有のこってりした料理に抜群に合うし、和めるのもいい。でも僕は、日本酒のように、刺身や淡白な味も含めて、幅広い料理に合う芋焼酎があってもいいと思った。なにより自分が飲みたかったんです」。
課題は香りだった。香りは酒の個性を印象付ける要素として大きな割合を占める。西さん自身、酒は吟醸酒から入り、ワインにもハマってワインエキスパートも取得したこともあり、香りに対する知識と感性は磨かれていた。蒸した芋の風味は芋焼酎の特徴だが、西さんは冷たくして飲んだ時に引き立つ清涼感のある香りを出したかった。試作を繰り返して、それまでの焼酎にはない画期的な原料と造りで、ようやく納得がいくものができた。

まず芋は、優れた焼酎用のサツマイモ品種「コガネセンガン」を使い、品種名をラベルに表示した。「日本酒では、酒米の王様として『山田錦』と誇らしげに表示しているので、焼酎でも飲み手に芋の品種名を知って欲しかった」と西さん。麹にする米は、焼酎造りで当時一般的に使われていた輸入米ではなく、日本酒造りで使う酒造好適米「五百万石」を使った。10%~20%を削って精米したのも異例だった。
種麹も、焼酎用の白麹や黒麹ではなく、日本酒用の黄麹を使った。黄麹はクエン酸を出さないため、鹿児島のような温暖な地域では腐造の恐れがあるとされていたが、爽やかな香味を出すために、あえて選んだ。さらに酵母も焼酎用ではなく、吟醸酒に使われる9号系の清酒酵母を自家培養し、通常の二倍ほどの日数をかけて、低温でじっくりと発酵させた。まるで全国新酒鑑評会に出品する大吟醸酒のような造り方である。
「日本酒の手法を取り入れることで、吟醸酒で感じる果物のような香りが出るように工夫したんです」。吟醸酒で酒を覚えた西さんならではの挑戦だ。

蒸留にも新しい技を取り入れた。昔ながらの本格焼酎は、もろみを単式蒸留器で常圧蒸留する。原材料の香りや旨味が引き出されるので、好きな人はたまらない。だが、それを匂いやエグミと感じる人もいる。そこで登場したのが、蒸留の圧力を下げた減圧蒸留によって風味や口当たりをソフトにしたタイプだが、反面、減圧タイプは物足りないという声もある。そこで西さんは、初めは常圧蒸留で旨味を感じる香りを引き出し、途中で減圧に切り替えることで、もろみのときに感じる日本酒の吟醸香にも似た果物のような香りを生かす方法をとった。いわば常圧と減圧の“いいとこどり”である。
このように既成概念にとらわれない造りをする一方で、麹造りはその頃、焼酎では一般的だった機械造りではなく、麹室での完全な手造り。仕込みは昔ながらの甕(かめ)を復活させるなど伝統的な製法を採用した。また原料の芋は、JAを通さず、契約農家から仕入れた。理想の味を実現するために、新旧かかわらず、最上と考える手段をすべて実践したのだ。

西酒造の主な芋焼酎
西酒造の主な芋焼酎。左から、コガネセンガンと黄麹で仕込んだオンザロックで旨い西酒造の原点「富乃宝山」、お湯割りで旨い黒麹を使った「吉兆宝山」、白麹仕込みの「白天宝山」、麹にも芋を使って全量コガネセンガンで仕込んだ「宝山 芋麹全量」、新鮮なコガネセンガンを寝かせ、芋麹で仕込んだ「宝山 完熟芋麹全量」、紫芋の品種アヤムラサキで仕込んだ「宝山 綾紫芋麹全量」。いずれも様々な国際コンクールで受賞歴がある。(2023年7月、西酒造の東京事務所にて)。2025年現在の焼酎の製造量は約1万5000石。

こうして完成した「富乃宝山」は、鹿児島では受け入れられなかった。「これは焼酎じゃなか」と酷評する酒販店が大半だったのだ。芋焼酎を普段飲んでいる人々にとっては、あまりにも芋焼酎の枠から外れていたのだろう。地元でたった2軒、日本酒にも力を入れている酒販店が理解してくれて、その店を通して、東京や大阪の地酒を取り扱う有力酒販店に情報が伝わり、酒販店から銘酒居酒屋へと広がっていった。「富乃宝山」は、本格焼酎ブームの火付け役の1つとなり、焼酎を敬遠していた人も虜にしていったのだ。
「富乃宝山」との出会いがきっかけで、筆者は取りつかれたように焼酎蔵を回り、本誌『dancyu』で焼酎の記事を書き、焼酎の単行本の執筆にも取り組んだ。「富乃宝山」に出会うことがなければ、本格焼酎に関心を持つこともなかったかもしれない。

高木さんは、当時、大流行していた淡麗辛口ではなく、自分の心をゆさぶった甘い蒸し米の香りをイメージして芳醇旨口の「十四代」を生み出し、日本酒に新しい味の世界を切り拓いた。かたや西さんは、清涼感ある新感覚の芋焼酎「富乃宝山」を生み出し、芋焼酎の世界を広げる旗手となった。自分が信じる独自の美味しさを突き詰めた二人の日本酒と本格焼酎は、飲み手を熱狂させた。天下に名を知られる存在となったのだ。
「俺は日本酒で天下を取る。ヨウちゃんは焼酎で天下を取るんだ!」。学生時代に二人で交わしたこの誓いを、造り始めた翌年に早くも果たしたのである。

二人の歩みは止まらない。高木さんは95年に発売したコスパ抜群の本醸造(当時)「本丸(ほんまる)」が大ブレイク。新聞、雑誌、テレビなど多くのメディアが、日本酒業界の新星として大々的に取り上げるようになった。
西さんは、ロックで旨い芋焼酎の次には、“じっちゃん”が飲んできた芋焼酎をテーマに、お湯割りで旨いホクホクした甘い香りが漂う「吉兆宝山(きっちょうほうざん)」を発売し、都会で人気を博す。また、米麹ではなく、芋麹で造った迫力ある味の「宝山 芋麹全量(いもこうじぜんりょう」」も、純米酒ならぬ“純芋焼酎”だと話題を呼ぶ。さらに2002年には芋の品種別シリーズに着手。アヤムラサキ、シロユタカ、高系14号、ジョイホワイトと、異なる品種の芋焼酎を季節ごとに販売する取り組みは、画期的だと注目を浴びた。
このシリーズで思い出したのは、99年に「十四代」が、当時は類例がなかった山田錦、雄町、八反錦、愛山など品種別の純米吟醸を季節違いで発売され、大きな話題を集めたことだ。西さんに確認してみると、「推察の通り! 十四代の影響受けています」という返事。「アキちゃんが『お客さんに選ぶことも楽しんでもらいたくて品種別の展開を考えた』と言うのを聞いて、学生時代に言っていた『旨い酒を造って飲んだ人に感動してもらうんだ!』という思いを、今もぶれずに実践していることに心打たれ、倣うことにしたんです」。
2003年には、焼酎の出荷量(甲類と本格焼酎の合算)は日本酒を上回る数字を記録。爆発的な焼酎ブームを牽引したのは、芋焼酎だった。その後も西酒造の芋焼酎人気は続き、「dancyu」2007年9月号に掲載した、本格焼酎に力を入る全国の酒販店120店のアンケートで「富乃宝山」は「売れ筋1位」。愛読者784人のアンケートでも、「黒霧島」「いいちこ」に次ぐ3位にランクインしている。

2005年1月号の雑誌「VENTURE」の表紙を飾った高木さんと西さん
2005年1月号の雑誌「VENTURE LINK」の表紙を飾った高木さんと西さん。「業界に新風を送り込んだ盟友」として5ページにわたって対談記事が掲載された(写真は西酒造提供)。

高木さんには、多くのことを学んできたと西さんは言う。
「なかでも忘れられないのは、96年か97年のある日、夜10時少し前にアキちゃんからかかってきた電話です。感極まっている様子なので、どうしたのか聞くと、『ヨウちゃん、俺の酒、なんでこんなに売れてるんだろう』と不安げな声で言うんです。本丸が大ブレイクし始めたころだったので、浮かれたり、天狗になってもふしぎじゃないのに、『俺の酒なんてまだまだなのに、こんなに売れるなんて、おかしいよ……』って涙声で僕に訴え続けるんです。もらい泣きしながら、深夜まで話を聞いていたのですが、そのとき思っていたのは、なんてモノ造りに対して真摯なんだろう、お客様に誠実なんだろうということです。スゲエよ、アキちゃん!スゲエ……と声にならない声をつぶやきながら、自分もそうありたいと心から思いました」。
高木さんとともに築き上げてきたモノ造りに臨む姿勢と人生観。それが、西酒造が掲げる社是「誠実 信頼 創造」へと繋がっていったと推測できるエピソードだ。

西さんがピンチのときには、高木さんが支えになってくれた。2008年、西酒造と取引がある米業者が事故米を販売したというニュースが報道された。その業者は工業用に処分することを目的に農水省から購入した米を、菓子や焼酎用に不正転売したのだ。
「うちの会社では仕入れた米は検査してから使っているので、焼酎の品質に問題はないのに、事故米を仕入れた会社の代表のように社名を公表され、メディアの標的になってしまったんです。コールセンターを設置して、焼酎を自主回収。数千万円の損失を出しながら、できる限り誠実に対応したのですが、『人殺し!』などという電話がジャンジャンかかってきて、社員の女性は精神的に参ってしまって。僕は代表として気丈にしていたけれど、実はキツくて食事が喉を通らなかった。そんなときアキちゃんが、共通して付き合いのある酒販店さんたちに『宝山、売れていますか?どうかよろしくお願いします』と電話してくれていたことがわかったんです。どれだけ心の支えになったか。事件が落ち着いてから僕に、『安易に人を信じちゃだめだよ』と助言をくれたのもありがたくて……」。
その翌年から、西酒造では麹用の米も、仕込み用の芋も、すべて鹿児島県内での自社栽培と契約栽培に切り替えた。「安易に人を信じないようにという兄貴の教えを守っています」。

いつも優しく助言をくれる高木さんだが一度だけ、「それはダメだ!陽一郎!」とガツンと言われたことがあるという。
「僕が、社名を宝山酒造に変えようかなと言ったときのことです。『銘柄名で知られていたとしても、僕らの酒造りは家業だよ。人がいて、家があって、酒を造れるんだ。西酒造、高木酒造でいくべきだ』ときっぱり言うんです。僕らはそれぞれ家業の不振や病気などピンチもあったけれど、家族や社員たちが支えてきてくれたから今がある。家業を継承するという意味を考えさせられました」。

西酒造のシングモルトウイスキー「御岳 ONTAKE」を持つ西さん
西酒造のシングモルトウイスキー「御岳 ONTAKE」を持つ西さん。錦江湾と御岳(桜島)を望み、豊かな天然水が湧く丘陵に建てた御岳蒸留所で2019年から蒸留を開始し、選び抜いた二条大麦とノンピート麦芽を原料に、上質なシェリー古樽で熟成を経て23年から販売を開始した。製造量は約500L入りの樽で年間450~500樽)。
西酒造の社是「誠実 信頼 創造」
西酒造の社是「誠実 信頼 創造」。高木さんと共に35年にわたって語り合ってきたことが基本姿勢になっている(以上2枚、2023年7月、西酒造の東京事務所にて)。

西酒造の名称は変えなかった西さんだが、年々、会社の事業内容をスケールアップ。長年交流してきたニュージーランドのワイナリーの経営を17年からスタートし、19年から自然派ワイン「URLAR(アーラー)」の販売を始めた。18年には、廃業蔵の製造免許を取得し、19年から日本酒「天賦(てんぶ)」を造り始めた。さらに、ウイスキー蒸留所ONTAKE(オンタケ)を建て、23年からシングルモルトウイスキーの販売を開始……と快進撃を続けている。
「僕は、自分が旨いと信じるものを造って、飲む人に喜んでもらいたい。それには焼酎という枠のなかだけでは限界を感じるようになってきた。味や香り、色合いに至るまで、もっと表現の幅を広げたかったんです。なかでも日本酒には憧れがあり、家業に就いた頃から僕なりの日本酒を造るのが夢でした。

「天賦」が発売されたばかりのころ、純米吟醸を飲んでみると気品漂う透明感のある美酒だった。想像をはるかに超えた上質な味わいに、失礼ながら驚いてしまった。「嬉しいですね。ワインでもウイスキーでも、僕の手掛けるすべての酒に共通しているのは、きれいな酒質で、ひっかかりがなく、ずっと飲み続けられること。それが、僕が旨いと信じる味です。酒類は飲み慣れてくると、味の濃いほうへ、風味の強い方へ向かうのが常でしょ?でも、僕は軽やかで、透明感があるけれど、味わいは深く、飽きがこないことを大切にしたいと思っています」。
自分も高木さんも、売れるものを造るという“マーケットイン”ではなく、自分が造りたいものを造るという“プロダクトアウト”。モノ造りをとことんつきつめれば、お客さんに支持され、売り上げにつながる、という姿勢で臨んでいます。西の造るものは、他とはちょっと違っていて、どれも美味しいよね、と思っていただけたら本望です」。

学生時代に高木さんと知り合うことがなかったら、西さんはどんな人生を送っていただろう。「酒とは違うビジネスで起業して、西酒造は廃業していたかもしれませんね。でも、アキちゃんとの出会いは運命だった。そう信じています。アキちゃんは尊敬する先輩で、兄で、心の支えです。これからも二人で共に、旨いと信じる酒を造り続けていきたいと思います」。

西酒造が造る日本酒「天賦(てんぶ)」
西酒造が造る日本酒「天賦(てんぶ)」。左から、60%精米の300mlのデイリー酒「純米酒」、食中酒を目指した50%精米の「純米吟醸」、赤磐雄町を50%精米した搾りたての生酒「純米吟醸 赤磐雄町 搾立生酒」、愛山50%精米の「純米吟醸 播州愛山」、兵庫県東条地区の山田錦35%を精米した「純米大吟醸」。いずれも透明感となめらかな飲み口が特徴だ。(2023年7月、西酒造の東京事務所にて)。2025年現在、日本酒の製造は約500石。

※次回は、広島で日本酒「宝剣」を造る宝剣酒造の物語をお送りします。

西酒造
鹿児島県日置市吹上町与倉4970‐17
【電話】099‐296‐4627

※文中の高木さんのお名前の漢字「高」は、正しくは“はしごだか”です。ブラウザ上で正しく表示されない可能性があるために「高」と表示しています。会社名は「高木酒造」です。

文・撮影:山同敦子

山同 敦子

山同 敦子 (酒ノンフィクション作家)

東京生まれ、大阪育ち。出版社勤務時代に見学した酒蔵の光景に魅せられ、フリーランスの著述家に。土地に根付いた酒をテーマに、日本酒や本格焼酎、ワイナリーなどの取材を続ける。dancyuには1995年から執筆し、日本酒特集では寄稿多数。「十四代」には94年に出会って惚れ込み、これまで8回訪問し、ドキュメントを『愛と情熱の日本酒――魂をゆさぶる造り酒屋たち』(ダイヤモンド社)、『日本酒ドラマチック 進化と熱狂の時代(講談社)』などに収録。