
日本酒の「十四代」、芋焼酎の「富乃宝山(とみのほうざん)」。酒好きに知られる超人気銘柄が誕生したのは、それぞれ1994年と95年。どちらも二十代の若い蔵の跡継ぎが、自らの手で生み出した新しい銘柄であり、それまでになかった新感覚の味わいで、酒業界に革命をもたらしたと言われる存在だ。日本酒蔵と芋焼酎蔵、2人の跡継ぎの出会いから始まる35年の物語をお送りする。(写真は、西酒造が経営するニュージーランドの自然派ワイン「URLAR」を試飲する西さん。)
「これが芋焼酎!?」。
1996年、筆者が初めて「富乃宝山」を飲んだときの驚きと感動は、約40年を経た今も鮮やかに蘇る。
洋梨やオレンジ、ローズマリー、沈丁花など、果物やハーブを思わせる香りが漂い、きれいな甘味を堪能したあとに、スパッと切れる。芋焼酎は、匂いがキツイと敬遠していただけに、きれいな香りと味わいの衝撃は大きかった。
「何も言わずにお出しすると、爽やかな吟醸酒ですね、と喜んでくれる方もいるんですよ」と、そのとき薦めてくれた東京・神田淡路町(当時)の銘酒居酒屋「夢酒」酒ソムリエの森隆さんは話していた。大吟醸酒のようにフルーティーな香り、純米酒に匹敵するような旨味、しかも抜群の切れの良さは、筆者のような日本酒党も虜にしてしまう魅力があった。
この店では日本酒を70銘柄ほど揃えていたが、本格焼酎も5銘柄を置き、この鹿児島の芋焼酎「富乃宝山」が一番人気。蔵の若い跡取りの西陽一郎さんが、前年の95年に自ら造りだしたばかりの新しい芋焼酎で、「夢酒」では系列のホテルが鹿児島県にある縁で注目し、都内でいち早く取り扱うようになったという。
本格焼酎はもともと九州地方の地酒的な存在で、鹿児島や宮崎ではサツマイモ、熊本では米、北九州では麦、奄美地方ではサトウキビ、など原材料は地域によって個性がある。それぞれ郷土料理とよく合い、東京の郷土料理店でも、たいてい地元の焼酎を置いてある。だが、90年代前半に東京の一般的な居酒屋にある焼酎といえば、チューハイ用の甲類焼酎(正式名称は連続式蒸留焼酎)か、本格焼酎(旧・乙類焼酎。正式名称は単式蒸留焼酎)のなかでも、減圧蒸留の麦焼酎ぐらいだった。無味無臭に近い甲類焼酎や、味わいがマイルドな減圧蒸留の麦焼酎は、ソーダやお湯で割り、梅エキスや果汁で風味付けをしたり、お湯で割って梅干を加えて飲むスタイルが流行っていた。だが、90年代半ばごろから、徐々に銘酒系居酒屋でも、本格焼酎をストレートやオンザロックで飲ませる店が登場し始めていた。
「夢酒」の森さんは、「焼酎は蒸留してしまうんだから、という気安さから、蔵の清掃や原材料の管理もずさんな場合が多かったのですが、蔵を清潔に保ち、原料を厳選し、麹の造り方もていねいな本格焼酎が登場してきた。上質な日本酒造りと基本は同じです。そんな焼酎はレモンなどで風味付けすることなくそのまま味わって欲しいと考えています」と、「富乃宝山」をオンザロックで飲ませてくれたのだ。
地酒専門酒販店の老舗として知られる東京・中野「味ノマチダヤ」でも、早期から本格焼酎に力を入れて来た。筆者が無類の日本酒好きであることを知る店主の木村賀衛(よしもり)さんは、「感動を与えてくれる酒を造る蔵は、日本酒でも焼酎でも、技術力だけではなく、豊かな感性を持っているんですよ」と教えてくれた。

初めて「富乃宝山」を飲んで数ヶ月後、焼酎を造っている本人の西陽一郎さんが東京に来ていると聞き、会いにいった。西さんは1971年10月10日生まれの25歳。当時専務で、いずれは8代目を継承する予定だという。
「香りが印象的で、焼酎のイメージが変わった」と感想を言うと、「うれしいなあ。ロックで飲んでもらいたくて造ったんですよ。いままでの芋焼酎とは違うかもしれないけれど、奇をてらっているわけではなくて、芋の魅力を引き出そうとした結果なんです」。
人懐っこい童顔をほころばせ、こちらの目をまっすぐ見つめながら、次から次へと言葉が飛び出てくる。その勢いに思わずたじろいでしまう。初対面の相手に、臆することなく自分の思いのたけをぶつけてくる若者は、東京ではなかなかお目にかかれない。鹿児島伝統の尚武の精神を受け継ぐ気骨ある“よかにせ”(鹿児島弁で「素敵な青年」)ぶりに、すっかり惚れこんでしまった。
西酒造は、薩摩半島の西岸に広がる景勝地でウミガメが産卵に訪れることで知られる吹上浜から10kmほどのところにある。初めて訪問した99年、松林に抱かれた砂浜を歩きながら「この浜で獲れたヒラメの刺身と、富乃宝山が素晴らしくよく合うんですよぉ」と、東京で西さんが自慢していたのを思い出していた。淡白なヒラメと、野太い芋焼酎は相性がいいとは言い難いが、軽やかで繊細な「富乃宝山」なら合うかもしれない。ヒラメに塩をふり、香りの高いオリーブオイルを垂らして、レモンをぎゅっと一搾りしたら最高だろう……と美しい景色を見ても飲み食いのことばかり考えてしまう。
浜から山間の道へ入ると、黒い壁の小さな蔵造りの建物が見えた。その横にある古びた町工場風の建物は、従来からの仕込み蔵だろうか。
「お久しぶりです。西酒造へようこそ!」と、小さな蔵から笑顔で飛び出て来た西さんは、目は赤いが、相変わらず元気いっぱいだった。
「毎晩夜遅くまでラベルを貼っているので、寝不足なんです」。
その頃の「富乃宝山」は、東京における芋焼酎人気の先頭を走る“切り込み隊長”のような存在だったので、跡継ぎが自らラベル張りをしているとは想像していなかった。改めて「富乃宝山」は、西さんが起死回生を狙って造り出した新しい焼酎であることを実感する。2003年に、西酒造は広大な敷地に新しい蔵を設立したが、99年に見た工房のような小さな建物こそ、西さんが家業に就いて新設した西さんの原点だったのだ。
西酒造の創業は、江戸末期の1845(弘化2)年。陽一郎さんの父で、当時の当主、陽三さんで7代目にあたる。芋焼酎「薩摩宝山」は地元の“じっちゃん”たちに愛飲されてきた。だが、8代目は全国区をめざす。きっかけは大学時代に味わった屈辱感だった。

西さんは鹿児島県立加世田高校から、東京の東京農業大学醸造学科(現在の醸造科学科)に進んだ。授業では日本酒について理論を学び、試験醸造も行なった。「日本酒の勉強は充実していましたが、焼酎は座学だけ。醸造酒を蒸留すれば蒸留酒になる。その程度の浅い内容だった」と西さん。
同級生には、日本酒蔵の息子たちが多く在籍していたが、焼酎蔵はいなかった。クラスメートたちと居酒屋に行くと、彼らの実家の酒はあるが、本格焼酎はない。同級生たちは「焼酎なんて、どれも味は変わらないよ。蒸留してしまうんだから適当に造っても同じなんだよ」と言い放った。悔しくて、反論したかったが、返す言葉がない。自分も心から旨いと思う焼酎に出会ったことがなかったのだ。
“焼酎はどれも大して変わらない”という考えは、西さんの地元、鹿児島でも同様だった。飲食店で置いてある焼酎は、たいてい1店1銘柄だけ。味は違わないと捉え、仕入れ価格や割引率などの条件のいい焼酎を選んでいたのだ。その結果、薄利多売の大規模なメーカーの焼酎が選ばれることになる。西酒造は家族経営の“父ちゃん母ちゃん蔵”だ。自分が鹿児島に戻るころには、廃業しているかもしれない。危機感を持っていた西さんは、別の道でも生きて行けるようにと、各種資格試験に挑戦。税理士試験は在学中に5科目中3科目に合格し、宅建(宅地建物取引士)の国家試験にも合格した。生活費も自分で稼ごうと、コア抜き作業(コンクリートに専用ドリルで穴を開ける作業)、コンビニ店員、クラブを会場としたパーティーの手伝いなど、様々なアルバイトに精を出した。
「自分で稼いでスカイラインGTRも手に入れました。クルマがないと、女の子にモテないからね(笑)」。
授業と資格取得のための勉強、バイトに精を出すなかで、共通の友人を通して出会ったのが、同じ農大で2学年上の高木顕統さん(あきつな、2023年辰五郎を襲名)だった。高木さんは後に「十四代」を自ら造り、日本酒界の新星として脚光を浴びるようになるが、学生時代には全国では無名の蔵の跡取りだった。
「売れていない焼酎蔵と日本酒蔵の跡取り同士。境遇が近いこともあって、すぐに意気投合して、アキちゃん、ヨウちゃんと呼び合うようになりました。アキちゃんにはお姉さん、僕は姉と二人の妹。お互い男兄弟がいないこともあって、兄弟みたいな関係になったんです。僕はそれまでチャラいテニスサークルに入っていたんだけど、辞めちゃいました。アキちゃんと話しているほうが、ずっと楽しかったからね。アキちゃんは見た目スマートだし、人を引き込むトーク術を持ちあわせる愉快な人で、モテモテでしたよ。だけど、軽薄じゃなく、思慮深くて、いつもいろんなことを真剣に考えている。話せば話すほど素敵な兄貴のことを大好きになっちゃったんです」。


西さんと高木さんが学生生活を送ったころ、東京は吟醸酒ブームに沸いていた。日本酒は、それまで一級、二級、特級と分けられていた級別が89年から段階的に廃止になり、92年に撤廃。本醸造酒や純米酒など、原料や精米歩合、醸造アルコールの添加の有無などによる分類に移行し、飲み手は製造法や味わいで日本酒を選べるようになった。なかでも米を磨いて丁寧に低温発酵で醸す高品質な日本酒として、吟醸酒に注目が集まっていたのだ。二人は三軒茶屋の「赤鬼」などの銘酒居酒屋へ繰り出し、日本酒の比べ飲みを楽しんだ。
「僕は吟醸酒で酒を覚えました。焼酎は、湯で割るとか、割合をどうするとか、飲み方の話題ばかりだったけれど、日本酒は酒質の話ができるのが楽しくてね。アキちゃんと『磯自慢』を飲んで、うめえなぁ~と感激したり、この酒は高いだけで、ちっともうまくネエじゃんなんて、好き勝手言い合って盛り上がっていたんです。家業のこと、将来のことも真剣に語り合ってた。女性の話もちょっぴりね。青春でしたね~」。
酔った西さんが、売れている酒蔵の息子が高価な外車を乗り回していることをうらやむような言葉を漏らしたことがあった。すると高木さんは、「今、彼らの酒が売れているのは先代の功績だよ。俺たちは、親の力ではなく、自分の力で旨い酒を造って、飲んだ人に感動してもらうんだ」と決然と言い切った。そのとき西さんは、将来の目標が見えた気がした。さらに、あるとき高木さんが宣言した。
「俺は日本酒で天下を取る。ヨウちゃんは焼酎で天下を取るんだ!」
高木さんの言葉で西さんは、高木さんと共通の目標に向かって進んでいく決意を固めたのだった。

※次回も引き続き、西酒造の物語をお送りします。
西酒造
鹿児島県日置市吹上町与倉4970‐17
【電話】099‐296‐4627
※文中の高木さんのお名前の漢字「高」は、正しくは“はしごだか”です。ブラウザ上で正しく表示されない可能性があるために「高」と表示しています。会社名は「高木酒造」です。
文・撮影:山同敦子